出エジプト記19章9~25節、詩篇2篇、ヘブル11章23~28節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

出エジプト記 19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。
 19:10 主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、
 19:11 三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。
 19:12 民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。
 19:13 その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
 19:14 モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、
 19:15 民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。
 19:16 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
 19:17 しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。
 19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
 19:19 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
 19:20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
 19:21 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
 19:22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
 19:23 モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
 19:24 主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
 19:25 モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。

詩篇 2:1 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか。
 2:2 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
 2:3 「我らは、枷をはずし 縄を切って投げ捨てよう」と。
 2:4 天を王座とする方は笑い 主は彼らを嘲り
 2:5 憤って、恐怖に落とし 怒って、彼らに宣言される。
 2:6 「聖なる山シオンで わたしは自ら、王を即位させた。」
 2:7 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。
 2:8 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。
 2:9 お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」
 2:10 すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。
 2:11 畏れ敬って、主に仕え おののきつつ、喜び躍れ。
 2:12 子に口づけせよ 主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか 主を避けどころとする人はすべて。

ヘブル 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、
 11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、
 11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
 11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
 11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。

 

 

ヘブル書の箇所には、モーセが信仰によって様々な決断をし、行動していったかのように記されている。

しかし、生まれてすぐに三か月間、両親によって隠されたとか、彼自身が選んだものではないこともあっただろう。

そう考えると、この「信仰によって」という言葉は、「神がご計画された道を、神の恵みの内に歩んだ」といった意味合いで語られていると捉えたほうがいいだろう。

そもそも私たちが神様を信じる「信仰」というのも、神がこの世界の全てを創り、命を与え、そして、罪ゆえに滅びようとしているものを、御子イエス様をこの世に送られることによって救おうとされたことを「信じる」ことであり、それは、神の愛と憐れみ、恵みを受け取るだけなのである。

何も私たちの側で作り上げたものも、努力したこともなく、全ては神が備えて下さった道を歩ませて頂いているだけなのである。

しかし、それこそが「信仰によって」生きる、ということなのだろう。

自分の力で滅びから脱出し、永遠の命を獲得できる力があるのなら話しは別だが、私たちにはそのような力はない。

エジプトから神の御業によって救い出されたイスラエルのように、神の恵みと憐れみのゆえに、滅びから解放され、永遠の命に与る者として頂いたものであることを覚え、その「信仰によって」歩んでいきたいものである。