イザヤ22章15~25節、詩篇40篇2~12節、ガラテヤ1章6~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 22:15 万軍の主なる神はこう言われた。「さあ行け、あの家令のところへ。宮廷を支配しているシェブナのところへ。」
 22:16 ここでお前は何をしているのか ここでお前は何者だというのか。ここに自分の墓を掘るとは何事か。高い所に墓を掘り 岩をえぐって住みかを造ろうとする者よ。
 22:17 見よ、主はお前を放り出される。人よ、主はお前を衣のように巻き
 22:18 ターバンのように丸めてまりを作り 広大な地へ放り出される。そこでお前は死に そこに、お前の誇る馬車も捨てられる。主人の家に恥をもたらす者よ。
 22:19 わたしは、お前をその地位から追う。お前はその職務から退けられる。
 22:20 その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、
 22:21 彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。
 22:22 わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。
 22:23 わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。彼は、父の家にとって栄光の座に着く。
 22:24 彼の父の家の栄光はすべて、彼の上に掛けられる。木の芽から葉に至るまで、また、小さな器もすべて、鉢からあらゆる壺に至るまで。
 22:25 だが、その日には、と万軍の主は言われる。確かなところに打ち込まれていたかなめは抜け落ち、それに掛けられていた重荷は、壊され、落ち、断たれる、と主が語られた。

詩篇 40:2 主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
 40:3 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ
 40:4 わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見 主を畏れ敬い、主に依り頼む。
 40:5 いかに幸いなことか、主に信頼をおく人 ラハブを信ずる者にくみせず 欺きの教えに従わない人は。
 40:6 わたしの神、主よ あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを わたしは語り伝えて行きます。
 40:7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。
 40:8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは 巻物に記されております。
 40:9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み あなたの教えを胸に刻み
 40:10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え 決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。
 40:11 恵みの御業を心に秘めておくことなく 大いなる集会であなたの真実と救いを語り 慈しみとまことを隠さずに語りました。
 40:12 主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく 慈しみとまことによって いつもわたしをお守りください。

ガラテヤ 1:6 キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
 1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。
 1:8 しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。
 1:9 わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
 1:10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
 1:11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
 1:12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

 

 

 

時々、自分はいったいどのように生きて行けば良いのだろうかとか、どこに向かって歩んで行けばいいのだろうかといったふうに悩むことがある。

しかし、いくらいろいろなところに目を向けたとしても、私を救ってくれるような方は、自らの命をささげ、十字架で死に、よみがえられたイエス様を置いて他にはいない、というところに帰ってくる。

ならば、どう生きようか、どこへ行こうかと悩んでいても、何も問題はないし、明確な答えが見えなくても、とにかく今を生きて行けばよいのだと思える。

もし、間違っていたら、自ずと正されるだろうし、己の欲望に従って生きていくことによって人生が幸いなものとなるほどこの世は甘くはない。

あるいは、他人からよく見られようとして生きたとしても、仮にそれを全うできたとしても実に虚しいことである。

福音とは何か、私にとって、本当によろこばしい知らせとは何なのか、全てのことが分からないとしても、少なくとも、神が御自分の御子イエス様の命を捨ててまで私を愛して下さったという言葉に信頼して、愛されたもの、赦されたもの、まことの命に与らせていただけるものとして生きていきたいものである。