イザヤ26章1~9節、詩篇20篇、2コリント4章16~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 26:1 その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた。
 26:2 城門を開け 神に従い、信仰を守る民が入れるように。
 26:3 堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に。
 26:4 どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。
 26:5 主は高い所に住まう者を引きおろし 築き上げられた都を打ち倒し 地に打ち倒して、塵に伏させる。
 26:6 貧しい者の足がそれを踏みにじり 弱い者の足が踏みつけて行く。
 26:7 神に従う者の行く道は平らです。あなたは神に従う者の道をまっすぐにされる。
 26:8 主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは わたしたちの魂の願いです。
 26:9 わたしの魂は夜あなたを捜し わたしの中で霊はあなたを捜し求めます。あなたの裁きが地に行われるとき 世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。

詩篇 20:1  指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
 20:2 苦難の日に主があなたに答え ヤコブの神の御名があなたを高く上げ
 20:3 聖所から助けを遣わし シオンからあなたを支えてくださるように。
 20:4 あなたの供え物をことごとく心に留め あなたのささげるいけにえを快く受け入れ
 20:5 あなたの心の願いをかなえ あなたの計らいを実現させてくださるように。
 20:6 我らがあなたの勝利に喜びの声をあげ 我らの神の御名によって 旗を掲げることができるように。主が、あなたの求めるところを すべて実現させてくださるように。
 20:7 今、わたしは知った 主は油注がれた方に勝利を授け 聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを。
 20:8 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。
 20:9 彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。
 20:10 主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください。

2コリント 4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
 4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
 4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

 

 

 

イザヤ書の箇所には、我々を救うために、主なる神様が天に堅固な都を築き、そこに私たちを迎え入れて下さるといったことが語られている。

そして、地においては、高ぶる者たちを引きずり降ろし、築き上げられた都も打ち倒し、塵に伏すであろうといったことが語られ、神に御手によって地上における裁きがなされるであろうことも告げられている。

こういった言葉があるからだろうか、原理主義的な考え方をする人たちは、地上におけるイスラエル王国の復興を推し進めることが神の正義と考え、神の御名を用いた戦争まで平気で行おうとするのだろう。

しかし間違ってはいけないのは、もし仮にそうした裁きが地において行われるにしても、それを行われるのは「神」である、ということであり、神の名を用いて人間が行うのとは違う。

たとえば、かつて南北イスラエル王国がアッシリヤやバビロンに攻め込まれ、国が滅ぼされたり捕囚として異国の地へと連れていかれたことがあったが、それは、神がそれらの国を用いたと語られていても、アッシリヤやバビロン真の神の御名によって行動したのではないだろう。

国同士の戦争だけではない。

人と人との関係においても、私たちは安易に神の御名を用い、あたかもそれが神の御心であるかのように思い込み、他者を批判したり、攻撃したりしているのではないだろうか。

私たちは、神の御心がどこにあるのか分からないこともあるけれど、少なくとも、神と人とを愛し、互いに愛し合い、互いに助け合いながら共に生きていく道を探っていくことが大切である。

 

ローマ7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

 

裁きを行う事ができるのは、神だけである。

まずはそのことをしっかりと覚えておきたいものである。