イザヤ29章17~24節、詩篇42篇、使徒5章12~16節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 29:17 なおしばらくの時がたてば レバノンは再び園となり 園は森林としても数えられる。
 29:18 その日には、耳の聞こえない者が 書物に書かれている言葉をすら聞き取り 盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。
 29:19 苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い 貧しい人々は イスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る。
 29:20 暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び 災いを待ち構える者は皆、断たれる。
 29:21 彼らは言葉をもって人を罪に定め 町の門で弁護する者を罠にかけ 正しい者を不当に押しのける。
 29:22 それゆえ、アブラハムを贖われた主は ヤコブの家に向かって、こう言われる。「もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない。」
 29:23 彼はその子らと共に 民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする。彼らはヤコブの聖なる者を聖とし イスラエルの神を畏るべきものとする。
 29:24 心の迷った者も知ることを得 つぶやく者も正しく語ることを学ぶ。

詩篇 42:1  指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。 
 42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
 42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て 神の御顔を仰ぐことができるのか。
 42:4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う 「お前の神はどこにいる」と。
 42:5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす 喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを。
 42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。
 42:7 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
 42:8 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて 深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
 42:9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが。
 42:10 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ 嘆きつつ歩くのか。」
 42:11 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き 絶え間なく嘲って言う 「お前の神はどこにいる」と。
 42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう 「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

使徒 5:12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、
 5:13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。
 5:14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
 5:15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。
 5:16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

 

 

 

イエス様は、ご自分が神であられることを証明するため、数々の奇跡を行われた。

そして、イエス様の昇天後、聖霊がくだった教会においても、使徒たちの間で多くの奇跡が行われていたことが記されている。

その後、神の救いの約束である福音の言葉は、世界中に広がり、教会は今もなお、その延長線上にあって福音を宣べ伝えている。

しかし、イエス様やその弟子たちがされたような奇跡や癒しの業は、なかなか簡単にはできない。

何が違うのだろうと思う事もある。

しかし、イエス様と出会い、イエス様の救いの約束を知った者は、少なくとも心のうちに喜びと平安が与えられる。

病が癒されたり、様々な困難な課題が劇的に解決されることはなくても、私たちの救いの約束が確かなものとして語られているなら、それで良い。

なぜなら、それこそが本当の癒しであるからである。

病は癒されても、また別の病を患う事もあるかもしれない。

けれど、救いの約束は二度と取り去られることはない、永遠の祝福である。

そのことを覚えながら、様々な悩みがあったとしても、平安のうちに歩んで行きたい。