エレミヤ9章16~25節、詩篇84篇2~8節、2テモテ3章10~15節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ 9:16 万軍の主はこう言われる。事態を見極め、泣き女を招いて、ここに来させよ。巧みな泣き女を迎えにやり、ここに来させよ。
 9:17 急がせよ、我々のために嘆きの歌をうたわせよ。我々の目は涙を流し まぶたは水を滴らせる。
 9:18 嘆きの声がシオンから聞こえる。いかに、我々は荒らし尽くされたことか。甚だしく恥を受けたことか。まことに、我々はこの地を捨て 自分の住まいを捨て去った。
 9:19 女たちよ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ。あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え 互いに哀歌を学べ。
 9:20 死は窓に這い上がり 城郭の中に入り込む。通りでは幼子を、広場では若者を滅ぼす。
 9:21 このように告げよ、と主は言われる。人間のしかばねが野の面を 糞土のように覆っている。刈り入れる者の後ろに落ちて 集める者もない束のように。
 9:22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。
 9:23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
 9:24 見よ、時が来る、と主は言われる。そのとき、わたしは包皮に割礼を受けた者を ことごとく罰する。
 9:25 エジプト、ユダ、エドム アンモンの人々、モアブ すべて荒れ野に住み もみ上げの毛を切っている人々 すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰し また、心に割礼のないイスラエルの家を すべて罰する。

詩篇 84:2 万軍の主よ、あなたのいますところは どれほど愛されていることでしょう。
 84:3 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。
 84:4 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。
 84:5 いかに幸いなことでしょう あなたの家に住むことができるなら まして、あなたを賛美することができるなら。
 84:6 いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。
 84:7 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。
 84:8 彼らはいよいよ力を増して進み ついに、シオンで神にまみえるでしょう。

2テモテ 3:10 しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、
 3:11 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。
 3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。
 3:13 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。
 3:14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、
 3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

 

 

テモテの手紙の箇所には、イエス・キリストを救い主として信じ、その信仰に深く生きようとする人たちは、皆、迫害を受けるだろうという事が語られている。

迫害を避けながら生きることも、できないことではないのかもしれないが、何かを妥協したり、偽ったりする必要が出てくるだろうし、そこに矛盾を感じてしまえば、かえって苦しいことにもなりかねない。

信仰者は、ある程度、何等かの迫害を受けることになるだろうし、その時、どう振舞っていくかということは、意外に重要なことなのだろう。

むしろ、そういう時の振舞いこそが、信仰を証ししていく絶好の機会と言えるのかもしれないし、実際、聖書に記されている使徒たちも、そのような迫害の中、彼らの信仰を表明し続けていったし、その証が聖書として今に語り伝えているのである。

その時々は困難なことも多々あったであろうけれども、こうして、今の時代に彼らの信仰の生涯が語り伝えられていることは、きと彼ら自身も誇りに思えることであろう。

今の時代を生きる私たちも、今、我々が生きている時代には好ましくないことや、苦しいことがあったとしても、それがいつの日か、後の世代の人たちへの生きた証しとなっていくのであるならば、それもまた幸いなことである。

様々な困難な中にも信仰を失わず、信じて、イエス様に従って歩んでいきたいものである。