列王記下5章19~27節、詩篇61篇、エフェソ6章10~20節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

列王記下 5:19 エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。ナアマンがエリシャと別れて、少し行ったとき、
 5:20 神の人エリシャの従者ゲハジは、「わたしの主人は、あのアラム人ナアマンが持って来たものを何も受け取らずに帰してしまった。主は生きておられる。彼を追いかけて何かもらってこよう」と言って、
 5:21 ナアマンの後を追った。ナアマンは彼が後を追って来るのを見て、戦車から飛び降り、彼を迎え、「どうかなさいましたか」と尋ねた。
 5:22 彼は答えた。「何でもありません。わたしの主人がわたしを遣わしてこう言いました。『今し方預言者の仲間の若い者が二人エフライムの山地から着いた。彼らに銀一キカルと着替えの服二着を与えてほしい。』」
 5:23 ナアマンは、「どうぞ、二キカル取ってください」と言ってしきりに勧め、二つの袋に銀二キカルを詰め、着替えの服二着を添えて、自分の従者二人に渡した。彼らはそれを持ち、ゲハジの先に立って進んだ。
 5:24 オフェルに着いたとき、ゲハジは彼らからそれらを受け取って家にしまい込み、彼らを帰した。彼らは去って行った。
 5:25 彼が主人のところに来て立つと、エリシャは、「ゲハジ、お前はどこに行っていたのか」と言った。ゲハジは、「僕はどこにも行っていません」と答えたが、
 5:26 エリシャは言った。「あの人が戦車から降りて引き返し、お前を迎えたとき、わたしの心がそこに行っていなかったとでも言うのか。今は銀を受け、衣服、オリーブの木やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。
 5:27 ナアマンの重い皮膚病がお前とお前の子孫にいつまでもまといつくことになるのに。」ゲハジは重い皮膚病で雪のようになり、エリシャの前から立ち去った。

詩篇 61:1  指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。
 61:2 神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。
 61:3 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。
 61:4 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。
 61:5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。
 61:6 神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り 御名を畏れる人に 継ぐべきものをお与えになります。
 61:7 王の日々になお日々を加え その年月を代々に永らえさせてください。
 61:8 王が神の前にあってとこしえの王座につき 慈しみとまことに守られますように。
 61:9 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い 日ごとに満願の献げ物をささげます。

エフェソ 6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
 6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
 6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
 6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
 6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
 6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
 6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
 6:18 どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
 6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
 6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

 

 

 

エリシャの従者であったゲハジは、病を癒してもらったナアマンがエリシャに対してお礼を渡そうとしたものの受け取らなかったことを見て、それをもったいないと思ったのだろう。

あろうことに、エリシャがそれを受け取りたいと言っていると嘘の情報をナアマンに伝え、それを聞いたナアマンは喜び、感謝の気持ちを添えてゲハジにお礼を渡すのである。

もちろん、ゲハジはそれをエリシャに渡すはずもなく、しかもエリシャにも全てお見通しであった。

いわゆる「魔が差した」とでもいうような罪をゲハジは犯してしまうのであるが、これはどんな人にも起こりうることであろう。

どんなに強い意思を持っている人でも、ほんの些細なことがきっかけで、人間の本性が現われ、とんでもない罪を犯してしまうのである。

現在、巷では行政長らのとんでもない行動が報道されていたりするが、どんなに強い意思を持って尊い働きに従事していようとも、人は弱く、小さな過ちを犯してしまう。

しかし、そうした過ちの多くは、本人が思っているほど小さなものではないし、他人から見れば、絶対に赦されないようなこととなりうる。

全ての罪を避けることはむずかしいが、自分が罪を犯していると気が付いた時には、一刻も早く手を引くか、謝るか、悔い改めている姿勢を見せる必要がある。

それがなかなか難しいのかもしれないが、私たち人間は、常にそうした誘惑との戦いを続けて行かなければならないだろう。

人はそれほど強くないけれど、主に祈りつつ、悔い改めるものに赦しが与えられることを信じ、大きな罪を犯してしまう前に、一刻も早く悔い改めることができるよう、なおかつ、あらゆる誘惑から守られるよう祈りつつ、戦うべき相手を見失わず、可能な限り誠実に歩んでいきたいものである。