サムエル記上5章1~12節、詩篇82篇、ヘブル10章32~39節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

サムエル記上 5:1 ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ。
 5:2 ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。
 5:3 翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。
 5:4 その翌朝、早く起きてみると、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。
 5:5 そのため、今日に至るまで、ダゴンの祭司やダゴンの神殿に行く者はだれも、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。
 5:6 主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。
 5:7 アシュドドの人々はこれを見て、言い合った。「イスラエルの神の箱を我々のうちにとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす。」
 5:8 彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、「イスラエルの神の箱をどうしたものか」と尋ねた。彼らは答えた。「イスラエルの神の箱をガトへ移そう。」イスラエルの神の箱はそこに移された。
 5:9 箱が移されて来ると、主の御手がその町に甚だしい恐慌を引き起こした。町の住民は、小さい者から大きい者までも打たれ、はれ物が彼らの間に広がった。
 5:10 彼らは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンに着くと、住民は大声で叫んだ。「イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか。」
 5:11 彼らは人をやってペリシテの領主を全員集め、そして言った。「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう。」実際、町全体が死の恐怖に包まれ、神の御手はそこに重くのしかかっていた。
 5:12 死を免れた人々もはれ物で打たれ、町の叫び声は天にまで達した。

詩篇 82:1  賛歌。アサフの詩。 神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる。
 82:2 「いつまであなたたちは不正に裁き 神に逆らう者の味方をするのか。
 82:3 弱者や孤児のために裁きを行い 苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
 82:4 弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から助け出せ。」
 82:5 彼らは知ろうとせず、理解せず 闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
 82:6 わたしは言った 「あなたたちは神々なのか 皆、いと高き方の子らなのか」と。
 82:7 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
 82:8 神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。

ヘブル 10:32 あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。
 10:33 あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。
 10:34 実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
 10:35 だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。
 10:36 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
 10:37 「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。
 10:38 わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」
 10:39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

 

 

 

私たちが生きていく世界では、様々な戦いがある。

しかし、何と戦うべきなのか、何のために戦うべきなのかといったことは、とても重要である。

しかも、戦うと言っても、考え方の違う人たちや、価値観の違う人たちを排除したり、ましてや殺したりといった戦いではない。

真の神以外のものを神としたり、頼りとするような生き方との戦いであり、そこに、殺し合いなどが生じる理由などない。

もっとも、迫害しようとする者たちには、そういった考え方がないから、私たちの方が殺されてしまうということもあるかもしれないが、たとえそうであったとしても、最後まで戦うべき相手を見失わないようにしたい。

信仰を守り通すこと、それこそが、私たちの戦いの本質であり、その先にある永遠の命の約束をしっかりと握りしめ、日々を生きていきたいものである。