創世記14章1~16節、詩篇15編、ルカ8章4~10節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記 14:1 シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアルが、
 14:2 ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アドマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラ、すなわちツォアルの王と戦ったとき、
 14:3 これら五人の王は皆、シディムの谷、すなわち塩の海で同盟を結んだ。
 14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに支配されていたが、十三年目に背いたのである。
 14:5 十四年目に、ケドルラオメルとその味方の王たちが来て、アシュテロト・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、
 14:6 セイルの山地でフリ人を撃ち、荒れ野に近いエル・パランまで進んだ。
 14:7 彼らは転進して、エン・ミシュパト、すなわちカデシュに向かい、アマレク人の全領土とハツェツォン・タマルに住むアモリ人を撃った。
 14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アドマの王、ツェボイムの王、ベラすなわちツォアルの王は兵を繰り出し、シディムの谷で彼らと戦おうと陣を敷いた。
 14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアル、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨクの四人の王に対して、これら五人の王が戦いを挑んだのである。
 14:10 シディムの谷には至るところに天然アスファルトの穴があった。ソドムとゴモラの王は逃げるとき、その穴に落ちた。残りの王は山へ逃れた。
 14:11 ソドムとゴモラの財産や食糧はすべて奪い去られ、
 14:12 ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。
 14:13 逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。
 14:14 アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者三百十八人を召集し、ダンまで追跡した。
 14:15 夜、彼と僕たちは分かれて敵を襲い、ダマスコの北のホバまで追跡した。
 14:16 アブラムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した。

詩篇 15:1  賛歌。ダビデの詩。 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。
 15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
 15:3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
 15:4 主の目にかなわないものは退け 主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。
 15:5 金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう。

ルカ 8:4 大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。
 8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
 8:6 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。
 8:7 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。
 8:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。
 8:9 弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。
 8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

 

 

 

同じ世界に、同じ時代に生きていても、真実を見極めようとする人と、そうでない人とがいる。

仕方がないことではあると思うが、何が違うのだろうか。

お互い、同じ人間であるし、求めているところは、それほど大きな違いはないと思うのだけれども、決定的なところで、信じるものが異なっているのかもしれない。

最も端的な言い方をすれば、神を信じるか、それとも、自分自身の考えを信じるかの違いなのだろう。

神を信じると言っても、自分自身が生み出した偶像の神を信じているのなら、それは結局は自分自身を信じているのと変わらない。

まことの神を信じるということは、人間が生み出したような都合の良い神々を信じるのとは違い、時に、理解しがたいこともあるかもしれない。

たとえば、神が人の姿となって人間の身代わりになって死に、それによって信じる者が救われるという聖書の教えもそうなのだろう。

人間的には理解しがたいことかもしれないが、それが聖書に記されているまことの神のお姿であり、そこには真実な神の愛が示されている。

私たちにできる事は、真実な愛の言葉、神の成し遂げられた救いの約束の言葉を聞き、そして信じて従って行く、それだけである。

その先には、必ず真実な幸いが約束されていることを覚えたい。