創世記13章1~18節、詩篇15編、エフェソ3章14~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

創世記 13:1 アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。
 13:2 アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。
 13:3 ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。
 13:4 そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。
 13:5 アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。
 13:6 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。
 13:7 アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。
 13:8 アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。
 13:9 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
 13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。
 13:11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。
 13:12 アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。
 13:13 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。
 13:14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。
 13:15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。
 13:16 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。
 13:17 さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
 13:18 アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。

詩篇 15:1  賛歌。ダビデの詩。 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り 聖なる山に住むことができるのでしょうか。
 15:2 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
 15:3 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
 15:4 主の目にかなわないものは退け 主を畏れる人を尊び 悪事をしないとの誓いを守る人。
 15:5 金を貸しても利息を取らず 賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は とこしえに揺らぐことがないでしょう。

エフェソ 3:14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。
 3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
 3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
 3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
 3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
 3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
 3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
 3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

 

 

エフェソの手紙の箇所には、祈りの言葉が記されているが、実に素晴らしい祈りであると言えよう。

まず、この祈りが真の神に向けて祈られていることが述べられているが、誰に頼るべきかということは何よりも大切であろう。

人を本当に助け、慰め、救い、生かして下さるのは、主なる神をおいて他にはいないからである。

そして、この祈りは、自分の祝福のためにいのられているのではなく「あなたがた」と記されている通り、他者の祝福のために祈られているものであることが伺えるだろう。

多くの人が神に祈り求めることはしていても、なかなか自分以外の他者のために祝福を祈ることをする者はいない。

そして、その祝福の祈りの中身についてであるが、具体的な祝福を祈るというよりも、頼りにしている神ご自身について知る事が祈り求められていることが興味深い。

というのも、人間は自己中心的で愚かなことばかりを求めて生きようとするが、それらの多くは、人を祝福するものではなく、滅びに導くものが多く、この祈りにおいては、神が与えて下さる救いの約束こそが真の幸いであるということを知ることこそが本当の祝福なのだということを教えようとしているのであろう。

人間の願い求めるものは、やがて無くなるものや、滅びへと通じるものが多く、主なる神様は、そこから私たちを救い出すために、御子イエス様の命をも犠牲にして贖い出して下さる。

この救いの約束こそ、まことの祝福であり、まことの幸いであることを覚えたいし、この幸いを一人でも多くの方に知ってもらえるように祈っていきたいものである。