ゼカリヤ14章10~21節、詩篇66篇1~9節、ルカ9章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ゼカリヤ 14:10 ゲバからエルサレムの南のリモンまで、全土は低地となる。しかし、エルサレムはベニヤミンの門から昔の門の区域を経て、角の門に至るまで、またハナンエルの塔から王の酒ぶねに至るまで、その高い位置にとどまり、
 14:11 そこに人々が住み着く。破滅が再び臨むことはなく エルサレムは安住の地となる。
 14:12 諸国の民がエルサレムに兵を進めてくれば 疫病で主はそのすべての者を撃たれる。肉は足で立っているうちに腐り 目は眼窩の中で腐り、舌も口の中で腐る。
 14:13 その日、主の大いなる混乱が彼らに臨む。彼らは互いにつかみ合い、手を振り上げる。
 14:14 ユダもエルサレムで戦いに参加する。周りのあらゆる国の富は集められる 金、銀、衣服も非常に多く。
 14:15 彼らの陣営にいる馬、らば、らくだ、ろばなど あらゆる家畜にも同じ疫病が襲う。
 14:16 エルサレムを攻めたあらゆる国から 残りの者が皆、年ごとに上って来て 万軍の主なる王を礼拝し、仮庵祭を祝う。
 14:17 地上の諸族の中で、エルサレムに上って万軍の主なる王を礼拝しようとしない者には、雨が与えられない。
 14:18 もし、エジプトの家族も上って来なければ、仮庵祭を祝うためにエルサレムに上らなかった諸国の民が、主から受けたと同じ疫病に見舞われることがないと言えようか。
 14:19 これこそ、仮庵祭を祝うために上って来なかったエジプトの受ける罰であり、またすべての国の受ける罰である。
 14:20 その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と銘が打たれ、主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。
 14:21 エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

詩篇 66:1  指揮者によって。歌。賛歌。 全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。
 66:2 御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。
 66:3 神に向かって歌え 「御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。
 66:4 全地はあなたに向かってひれ伏し あなたをほめ歌い 御名をほめ歌います」と。
 66:5 来て、神の御業を仰げ 人の子らになされた恐るべき御業を。
 66:6 神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った。
 66:7 神はとこしえに力強く支配し 御目は国々を見渡す。背く者は驕ることを許されない。

 66:8 諸国の民よ、我らの神を祝し 賛美の歌声を響かせよ。
 66:9 神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。

ルカ 9:1 イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。
 9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、
 9:3 次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。
 9:4 どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。
 9:5 だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」
 9:6 十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。

 

 

イエス様は、神の国を宣べ伝えるために弟子たちを遣わそうとされた時、旅をする際に必要と思われる杖も袋も、パンもお金も持って行くなと命じられ、下着も二枚も持つなとまで仰せられている。

必要なものは、旅先で与えられる、ということであろう。

もしくは、宣教した人たちから捧げものが与えられるであろうから、それで生活せよ、ということなのだろう。

かなり厳しい命令ではあるが、これらの働きが人間の力によるのではなく、神の御業であることを示すために、そのように命じられているのであろう。

宣教の業は、弟子たちの努力や能力によるのではなく、全ては神の恵みによるものであるということを体験的に示して行かれる、ということであろう。

果たして私たちはそこまでの信頼を持って働きに望んでいるだろうか。

むしろ、多くの場合、いろいろと先んじて心配し、ありとあらゆることを想定して、しっかりと準備をし、その上で臨んでいることの方が多いように思う。

もちろん、何も準備しないで、行き当たりばったりで何もかもできるほど世の中は簡単ではないから、ある面は仕方がないこともある。

しかし、それでは宣教の働きの可能性を自分たちで狭めているような者ともいえるし、もっと神の恵みに信頼し、期待してもいいのでろう。

イエス様がこのように仰せられたことの意味や目的について、しっかりと心に留めて歩んでいきたいものである。

宣教の業は、主が望まれている必要な働きなのだから、主がなんとかして下さる。

そう信じて、宣教の旅を進めて行こう。