イザヤ32章11~17節、詩篇104篇24~35節、ガラテヤ5章16~25節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 32:11 憂いなき女たちはおののく 安んじている女たちは慌てふためく。衣を脱ぎ、裸になって 腰に粗布をまとえ。
 32:12 ぶどう畑のために、胸を打って嘆け 美しい畑、実り豊かであったぶどうの木のために
 32:13 茨といらくさに覆われたわが民の畑のために 喜びの家、陽気な町のために。
 32:14 宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ 見張りの塔のある砦の丘は とこしえに裸の山となり 野ろばが喜び 家畜の群れが草をはむ所となる。
 32:15 ついに、我々の上に 霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり 園は森と見なされる。
 32:16 そのとき、荒れ野に公平が宿り 園に正義が住まう。
 32:17 正義が造り出すものは平和であり 正義が生み出すものは とこしえに安らかな信頼である。

 

詩篇 104:24 主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
 104:25 同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
 104:26 舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
 104:27 彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
 104:28 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
 104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に返る。
 104:30 あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。
 104:31 どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
 104:32 主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。
 104:33 命ある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
 104:34 どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。
 104:35 どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

 

ガラテヤ 5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
 5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
 5:18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
 5:19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
 5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
 5:21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
 5:22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
 5:23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 5:24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 5:25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

 

 

 

 

 

当たり前のことであるが、聖書の言葉というのは、まず最初に自分自身に対して神が語られている言葉である、ということを覚える必要がある。

罪深い自分自身に気づき、その罪のために主イエス様が十字架で身代わりとなって死んで下さったのは、他でもない、この私の為である。

そこをスルーして、まるで自分には関係ないことであるかのように、他人にだけ当てはめようとしていても、それで御言葉を聞いていることにはならないのは当然である。

 

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

 

これらの罪の現実は、周りの人たちの中にあることではなく、私のうちにあるものである。

そんなにひどいことはしていない、と言うなら、最初からイエス様の十字架など必要ないということになる。

しかし、そう思っている時点で、既に高慢なのだ。

平気で他人を見下したり、他人を裁いたりするような人の、どこに神の国が訪れているというのだろう。

御霊の結ぶ実を求めるのは良いことだが、まずは、それ以前に成すべきことがある。

己の愚かさ、罪深さをしっかりと認め、そのためにイエス様が十字架で死んで下さったことを覚えよう。

まずはそこからである。

むしろ、それが全てである。