エゼキエル3章12~21節、詩篇29篇、ルカ9章18~27節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エゼキエル 3:12 そのとき、霊がわたしを引き上げた。わたしは背後に、大きなとどろく音を聞いた。主の栄光が、その御座から上るときの音である。
 3:13 あの生き物の翼が互いに触れ合う音、生き物の傍らの車輪の音、かの大きなとどろく音を聞いた。
 3:14 霊はわたしを引き上げて連れ去った。わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた。
 3:15 こうしてわたしは、ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚民のもとに来たが、彼らの住んでいるそのところに座り、ぼう然として七日間、彼らの間にとどまっていた。
 3:16 七日の後、主の言葉がわたしに臨んだ。
 3:17 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。
 3:18 わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。
 3:19 しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。
 3:20 また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに問う。
 3:21 しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」

 

詩篇 29:1  賛歌。ダビデの詩。 神の子らよ、主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ
 29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
 29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
 29:4 主の御声は力をもって響き 主の御声は輝きをもって響く。
 29:5 主の御声は杉の木を砕き 主はレバノンの杉の木を砕き
 29:6 レバノンを子牛のように シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
 29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
 29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ 主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
 29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ 月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える 「栄光あれ」と。
 29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
 29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

 

ルカ 9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
 9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
 9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
 9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
 9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
 9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。
 9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。
 9:27 確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」

 

 

 

 

 

信仰とは、あくまで個人個人が選ぶ生き方のようなものである。

誰も他人に強制はできないし、信じるか信じないかは、その人自身が決めることである。

同時に、それゆえ、信仰の責任は個々人にある。

つまり、信じることによる結果も、承知の上で選ぶことである。

知らなかったとか、こんなはずでは無かったなどと、あとになって言うことはできない。

結末を承知の上で神など信じないで生きるのか、それとも、主イエス様を救い主として信じ、信じた者に約束されている永遠の命を頂くか、どちらを選ぶにしても、その人自身が決めることであろう。

もちろん、私たちは、全ての人に救われて欲しいと願っている。

ただ、選ぶのはその人自身であり、私たちにできる事は、その人が救いを選び取ってくださるようと祈るくらいのことだけであろう。

せめて、信じることで救われていることの喜びに生きる姿は見せられるように心がけていきたいものである。