イザヤ5章11~17節、詩篇30篇、黙示録3章14~22節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

イザヤ 5:11 災いだ、朝早くから濃い酒をあおり 夜更けまで酒に身を焼かれる者は。
 5:12 酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず 御手の業を見ようともしない。
 5:13 それゆえ、わたしの民はなすすべも 知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え、群衆は渇きで干上がる。
 5:14 それゆえ、陰府は喉を広げ その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も 騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。
 5:15 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。
 5:16 万軍の主は正義のゆえに高くされ 聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。
 5:17 小羊は牧場にいるように草をはみ 肥えた家畜は廃虚で餌を得る。

 

詩篇 30:1  賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。
 30:2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく わたしを引き上げてくださいました。
 30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。
 30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。
 30:5 主の慈しみに生きる人々よ 主に賛美の歌をうたい 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
 30:6 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
 30:7 平穏なときには、申しました 「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
 30:8 主よ、あなたが御旨によって 砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると わたしはたちまち恐怖に陥りました。
 30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
 30:10 わたしが死んで墓に下ることに 何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
 30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
 30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え 粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
 30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い 沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ とこしえにあなたに感謝をささげます。

 

黙示録 3:14 ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。
 3:15 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
 3:16 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
 3:17 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
 3:18 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
 3:19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
 3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
 3:21 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。
 3:22 耳ある者は、"霊"が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」

 

 

 

 

田舎に引っ越してきて、一年が経った。

とくに困ることもなく、とりたてて楽しいこともない。

ただ平穏に暮らしている。

でも、それで良い。

それが良いのだ。

もっとも、若い人たちには楽しめるところが少なかったりするのかもしれないが、その分、自然は多いし、楽しもうと思えば、いくらでも楽しむ方法はあるのだろう。

何千億円もかけてきらびやかなモノを造り、楽しいイベントを企画しても、数時間も並んだり、座って休むこともできず不平を言ったり、そんなことをしなくても、人の手によるのではない、神さまが創られた美しい世界に身を置いてみるだけでも、大きな感動を味わう事はできるだろう。

何も、人が楽しむために、人が考え、人が作ったものに、大金を費やし、あちこち捜し歩き、疲れや不満を抱いて、SNSで愚痴を述べる必要などないのではないだろうか。

みな、何が幸いなことなのか、何が人を本当に喜ばせるのか、見えていないし、理解していないのだろう。

イエス様は、そんな私たちのところを訪ね、心の扉をたたいて下さる。

「あなたと一緒にいて、幸いな時を過ごそうよ」と、そんな風に願っておられるのではないだろうか。

耳を澄まして、イエス様の語られるみ言葉に、その本心を聴いてみよう。

こんなにも私は神に愛されているのだ、ということを知る事だろう。