エステル9章1~5,18~23節、詩篇122篇、ルカ12章4~12節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エステル 9:1 第十二の月、すなわちアダルの月の十三日に、この王の命令と定めが実行されることとなった。それは敵がユダヤ人を征伐しようとしていた日であったが、事態は逆転し、ユダヤ人がその仇敵を征伐する日となった。
 9:2 ユダヤ人はクセルクセス王の州のどこでも、自分たちの町で、迫害する者を滅ぼすために集合した。ユダヤ人に立ち向かう者は一人もいなかった。どの民族もユダヤ人に対する恐れに見舞われたからである。
 9:3 諸州の高官、総督、地方長官、王の役人たちは皆、モルデカイに対する恐れに見舞われ、ユダヤ人の味方になった。
 9:4 モルデカイは王宮で大きな勢力を持ち、その名声はすべての州に広がった。まさにこのモルデカイという人物は、日の出の勢いであった。
 9:5 ユダヤ人は敵を一人残らず剣にかけて討ち殺し、滅ぼして、仇敵を思いのままにした。

 9:18 スサのユダヤ人は同月の十三日と十四日に集合し、十五日には安らぎを得て、この日を祝宴と喜びの日とした。
 9:19 こういうわけで、地方の町に散在して住む離散のユダヤ人は、アダルの月の十四日を祝いの日と定め、宴会を開いてその日を楽しみ、贈り物を交換する。
 9:20 モルデカイはこれらの出来事を書き記し、クセルクセス王のすべての州にいる全ユダヤ人に、近くにいる者にも遠くにいる者にも文書を送り、
 9:21 毎年アダルの月の十四日と十五日を祝うように定めた。
 9:22 ユダヤ人が敵をなくして安らぎを得た日として、悩みが喜びに、嘆きが祭りに変わった月として、この月の両日を宴会と祝祭の日とし、贈り物を交換し、貧しい人に施しをすることとした。
 9:23 ユダヤ人は既に実行し始めていたことでもあり、またモルデカイが書き送ってきたこのことを受け入れた。

 

詩篇 122:1  都に上る歌。ダビデの詩。 主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。
 122:2 エルサレムよ、あなたの城門の中に わたしたちの足は立っている。
 122:3 エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い
 122:4 そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。
 122:5 そこにこそ、裁きの王座が ダビデの家の王座が据えられている。
 122:6 エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。
 122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」
 122:8 わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」
 122:9 わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」

 

ルカ 12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
 12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
 12:6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
 12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 12:8 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
 12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。
 12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
 12:11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。
 12:12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

 

 

 

 

 

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」

この言葉は、ある意味この地上の世界においては迫害や戦争などによって命を落とすことがあるかもしれないことが語られていると同時に、この地上の世界での命より、死後の世界における命にあずかることのほうが重要であることが述べられていると言えるだろう。

もちろん、たとえそうであったとしても、この地上の世界における人生も大事なものであるし、願わくは、平穏で暮らしていたいと思うのが当然であ。

何も、率先して自分の命を損なう方向に突き進む必要はなく「仮にそうなったとしても安心していなさい」といった意味でイエス様は語られているのであろう。

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

この言葉だけでも十分なお言葉であるが、それに続いて語られている

「 言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」

というみ教えを大切にしていきたい。

これからの私たちの人生がどうなっていくのか、それは誰にも分からないが、命のある限りは、イエス様によって救われていることを証ししていくものでありたい。

仮にそれすらできなかったとしても、イエス様のことを信じる心だけは失わずに生き抜いていきたいものである。