ヨシュア記10章16~27節 詩篇118篇1~2,14~24節 1コリント5章6~8節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヨシュア記 10:16 この五人の王は逃げてマケダの洞穴に身を隠した。
 10:17 ヨシュアは、五人の王がマケダの洞穴に隠れているのが見つかったとの知らせを受けると、
 10:18 こう命じた。「大きな石を転がして、洞穴の入り口をふさぎ、見張りの兵を置け。
 10:19 あとの者はそこにとどまらず、敵を追撃し、背後から攻撃して、町に入れるな。あなたたちの神、主は既に彼らをあなたたちの手に渡された。」
 10:20 ヨシュアの率いるイスラエルの人々は敵に決定的な大打撃を与え、ついに全滅させた。かろうじて砦の町へ逃げ込んだのはごくわずかの敗残兵にすぎなかった。
 10:21 民は皆、無事にヨシュアのいるマケダの陣営に帰還し、もはやイスラエルの人々を中傷する者はなかった。
 10:22 ヨシュアは命じた。「洞穴の入り口を開き、あの五人の王たちを洞穴からわたしの前に引き出せ。」
 10:23 彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。
 10:24 五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼と共に戦った兵士の指揮官たちに、「ここに来て彼らの首を踏みつけよ」と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。
 10:25 ヨシュアは言った。「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対して主はこのようになさる。」
 10:26 ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた。
 10:27 しかし、太陽の沈むころ、ヨシュアは命じてその死体を木から下ろさせ、彼らが隠れていた洞穴に投げ入れ、入り口を大きな石でふさいだ。それは、今日まで残っている。

 

詩篇 118:1 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 118:2 イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。

 118:14 主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
 118:15 御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
 118:16 主の右の手は高く上がり 主の右の手は御力を示す。
 118:17 死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。
 118:18 主はわたしを厳しく懲らしめられたが 死に渡すことはなさらなかった。
 118:19 正義の城門を開け わたしは入って主に感謝しよう。
 118:20 これは主の城門 主に従う人々はここを入る。
 118:21 わたしはあなたに感謝をささげる あなたは答え、救いを与えてくださった。
 118:22 家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。
 118:23 これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。
 118:24 今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

 

1コリント 5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
 5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

 

 

 

邪悪の芽は、まだそれが大きくならないうちに取り除かれるべきである。

大きく成長し、もうどうにも手を付けられなくなってからではどうすることもできず、全てを処分するしかなくなってしまう。

人の罪もそう。

罪がどんどん大きなってからでは手遅れとなってしまう。

しかし、私たち人間には、それを取り除くことが出来ない。

そんな私たちを救うため、イエス様は私たちの身代わりとなって十字架で死んで下さった。

もはや手遅れで、滅ぼすしか他に方法がないような私たちの身代わりとなって十字架で死んで下さったのである。

できることなら、もっと早い段階で罪の芽を処分していられればよいのだが、それができないから、神ご自身が私たちのために罪の償いの御業を成し遂げて下さったのである。

イエス様が私たちのために身代わりとなって死んで下さり、それにょって全ての罪が赦されるということを信じるなら、私たちはもはや神の御前に全く罪のない清いものとして神の国に迎え入れて頂けるのである。

なんとももったいないことかと思うと反面、それしか私たちが救われる方法がなかったことを思う時、ただただ主イエス様にすがるほかないことを思う。

救われた約束を頂いていても、あいかわらず罪にとらわれたような自分であるけれど、これからも主イエス様をまことの救い主として信じて歩んで行こう。