ローマ9章30節~10章4節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ローマ 9:30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
9:32 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
10:1 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
10:2 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
10:3 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
10:4 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

今日は、クリスチャンになられたある方とお会いする予定になっている。
その方のもっかの悩みは、家にある仏壇を処分するかどうか迷っているとのことらしい。
私としては、そもそもそれほど意味のないものを大事に保管する意味もないと思っているので、要らなければ捨てれば良いくらいに考えている。
ただ、やはり何か神聖なものとか、恐れ多いものといった認識を持っている方々には、一歩踏み出すのは、そうとう勇気がいるようである。
そこで考えてみたいのは、そもそも仏教というのは、もともと修行を重ねることで苦を感じなくなるまで達することで成仏するという考えがあったのではないか、ということである。
それがいつの間にか、日本で普及する中で、死んだら自動的に仏になるという考え方が広く普及していったものと考えられる。
お仏壇は、そういった考え方の中で、どのような意味があるのかと考えてみると、成仏しきれていない方をサポートするために現世に残されたものが日々供養する場所?あるいは手段?そんな考え方があっているのかどうかわからないが、「死んだら自動的に成仏する」というところが若干弱められているのではないかと思うのである。
そう考えると、少しは元の仏教の教えに戻りつつあるような気がしないでもない。
いずれにしても、根本的なところでは、人間の努力を重ねることで、もはや死も苦しみもない仏のレベルに達するということは違いないだろう。
もしそうだとしたら、よほどの供養をしなければならないはずである。少なくとも、ブッダがそうであったように、世間の人も、ブッダと同じレベルの苦行を積まなければなるまい。

今日、そんなことが話せるのかどうかわからないが、少なくともキリスト教では人間にできない救いのために必要な業をイエス様がすべて私たちの身代わりとなって成し遂げて下さったゆえに、もはやイエス様を信じるだけで良いのですということをお話ししてきたい。
私たちの義は、律法によるのではなく、信仰によって得ることのできる義であるということを。