ヨハネ 12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。
12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。
12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。
12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。
12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
本日は使徒パウロの日ということで、本来なら、使徒9章の個所のパウロの回心の出来事を見るべきであろう。
パウロは、もともと熱心なユダヤ教徒であり、多くのほかのユダヤ教徒と同様、目に見えない神を名乗る、目に見える神の子キリストは、神を名乗る冒涜者に過ぎないと考えたことだろう。
けれど、イエス様のこのような証言を見るなら、このお方を通して我々は目に見えない神のお姿を見ることができるということになる。
もし、目に見えない神が、いつまでも私たちの世界に現れることなく、目に見えないままだったなら、いつ救いが実現するのだろう。
イエス様は確かに来られたのである。
だから、我々の救いも確かなのである。
パウロもまたキリストに出会い、確かな救いの経験をした。
だから、彼の言葉も宣教も力強いものとなっていったのであろう。
救いの確かさはキリストへの信仰によってもたらされる。
私の熱意ではない。キリストが確かに来られ、贖いを成し遂げられた事実の上に成り立つのである。