2テモテ2章8~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2テモテ2:8 イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。
2:9 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。
2:10 だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。
2:11 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。
2:12 耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。
2:13 わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。」

キリストが十字架で苦しまれ、死なれたのは、私たちの身代わりとなって贖いの代価を支払い、それによって、私たちの全ての罪が赦され、救われるためである。
だから、キリストがそうであったように、我々も迫害やあらゆる試練を耐え忍ぶべきであると言う。
しかし、それで私たちは一体だれの命を救えるのだろうか。
私たち人間を救うことができるのは、ただただ救い主イエス・キリストお一人である。
ならば、キリストと同じように・・・というのは、ある意味、無理な話ではないだろうか。
パウロがここで語っていることも、キリストがこのように歩まれたから、私はこう生きてみようという趣旨であって、同じように苦しむべきという意味で語っているのではないと思う。
「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」
この言葉こそ真実ではないだろいうか。
仮に迫害に耐えられなかったとしても、救いの約束が変わるわけではない。
だから、安心して生きればよい。
ただ、キリストの尊い犠牲によって救われたことを思うなら、それだけの犠牲を支払って贖われた者として、キリストのものとして生きていくことは心がけたいと思う。それで良いのではないだろうか。