1コリント11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
11:28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
11:29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
11:30 そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。
11:31 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
11:32 裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。
11:33 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。
私たちの教会では、伝統的に幼児洗礼が行われている。
親が子供に一番良いものをと願う思いは尊いものだし、神の恵みとしての救いの約束という点では、幼児洗礼はとても聖書的なものであると言えるだろう。
しかし、幼児洗礼が行われることで、堅信礼という式も行われることになる。
通常、堅信礼では、幼児洗礼を受けた人が自分の言葉で信仰を告白し、信仰者として認められるのであるが、これを機に聖餐式にあずかるようになるケースがほとんどである。
ところが、最近では、堅信礼と聖餐式にあずかる時期との関係が必ずしも一致しなくても良いという風になってきている。
もともと、このような考え方の背景には、このコリント書のみ言葉が影響しているものと思われるが、「ふさわしくないままで」とはどういうことなのか、ただ単に洗礼を受けていないという事実であったり、幼児洗礼は受けているが堅信礼をまだ受けていないということなのか、実は、そのような記述は聖書のどこにもないのである。あるとするなら、「自分をよくわきまえたうえで」という表現のみであるが、自分をわきまえているとはどういうことか、それは、己の罪をしっかりと認識し、悔い改め、主イエス様がそのために身代わりとなって十字架で死なれたことを、それが自分のためであったということを「わきまえている」ということなのではないだろうか。
とすると、私たちは聖餐式のたびごとに己の罪をざんげし、主イエス様の十字架の死を思い、赦しを頂くことを感謝していることが全てなのだろうと思う。
もっとも、それができていることが洗礼や堅信礼の前提ではあるが、すでに洗礼を受けている者も、習慣的に聖餐を受けるのではなく、その都度、罪の自覚と悔い改め、主イエス様の十字架の死の意味を覚え、聖餐を受けることが大切なのである。
聖餐を受けるにふさわしい人とは、形式的なことだけではなく、内面的なことが大切なのだと思う。