1コリント10章14~22節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

1コリント10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
10:15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
10:18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。
10:19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。
10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。
10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。
10:22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

クリスチャンになってまだ間もない頃、おみやげを持って実家に帰ると、母親がそのおみやげを神棚に供えてくれた。
内心、嬉しくはなかったけど、仕方がないと思い、母親がそうすることで安心し、祝福されたように感じているのなら、あえて何も言わないままにしていた。

月日を経て、良心ともにクリスチャンになった。
その頃、「この神棚とかどうするの?」と聞いたら「もともと、そんなものに何の意味もないと思ってたから」とのこと。
一体あれはなんだったのだろうと思いながら、その神棚は私が処分した。
以来、神棚があった場所は、単なる書類置き場となっている。さして、重要なものでもなく、とりあえず片付けたいものがそこに置いてあるだけ。ただの棚。

かくして我が家の実家に「神」の住まいはなくなったわけであるが、以前より「ばりがあたる」だの「たたり」だの、そういった言葉を聞かなくなった気がする。「イエス様」という言葉もめったに聞かないが、心のうちには平安があるのだろう。
たとえ習慣であっても、偶像を礼拝する行為が続いている間は、何らかの恐れのようなものがあったのかもしれない。
けれど、今はない。平安である。

ここまで導いて下さった主に感謝である。