マタイ6章1~6節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

今日は灰の水曜日、四旬節が始まる日である。
イエス様が荒野で40日間苦しまれたことを覚え、イースターまでの40日を悔い改めの期間として過ごすことになる。
悔い改めというと、何か、悪いことを改めて、清く正しい生き方に変えられていくことを想像してしまうのだが、今朝の御言葉などを読むと、どちらかと言うと、悪を改めて善をなすというより、本当の自分を見つめるということに近いような感じがする。
私たちは神に祈る。
しかし、何のために祈るのか。
人に見せるための祈りなどというのは、本来、ありえないこと。
しかしそれは、私たち全ての生き方にも言えることではないだろうか。
私たちは何のために生きているのか。
人に見せるためか。
確かに、我々人間は、人と人との間にあって生きていて、人に見られない生き方を選んでいくというのは難しい。
けれど、見せるために生きているわけではない。
本質的な要素を大切にしていく時、それを見られる事はあっても、見せるために本質を変えていくわけではない。
切実な願いがあって神に祈るように、真実な目的があって我々は生きている。
そのことを見失わないようにしていきたい。
我らの生涯は、神によって与えられ、神によって贖われ、神によって守られ、支えられている。