出エジプト1:1 ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。
1:2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ、
1:3 イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、
1:4 ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。
1:5 ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。
1:6 ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、
1:7 イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。
1:8 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、
1:9 国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。
1:10 抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」
1:11 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。
1:12 しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、
1:13 イスラエルの人々を酷使し、
1:14 粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。
本日から出エジプト記に入る。
旧約聖書の中では、かなり重要な文書の一つでもあり、なぜイスラエルの民が今もなお存在するのかということによって、神が今も生きて働いておられることを証するためとなっているとも言えるのである。
しかし、それゆえか、それとも全く別の理由によるのか、イスラエルの民に向けられた周囲の態度は、あまりにも厳しいものばかりである。
出エジプト記の冒頭には、何故イスラエルがエジプトで奴隷の民となってしまったのかという理由について簡単に触れられているが、何故それで迫害するのだろうと思われるくらい、根拠に乏しい「恐れ」と言ったものであることが述べられている。
妬みというのもあるのかもしれない。
いずれにしても、本来、迫害するに値する明確な理由があるわけではないのである。
昨日、日本の首相がイスラエルにあるホロコーストの記念館を訪ねたということがニュースで紹介されていたが、第二次大戦中のユダヤ人への迫害も同じようなものかもしれない。迫害する明確な理由はないのかもしれない。
ただ、得体の知れない神を礼拝する、独特な人たちの集まりで、なんとなく近寄りがたく怖い、とか、理解できないほど勤勉に働いて財を積み上げていくことへの恐れと言ったようなものがうごめいていたのかもしれない。
本当は、勤勉で優秀な人たちであるはずなのに、一般の人にはそれが理解されないという悲しい現実でもある。
しかし、イスラエルの民は、そのような迫害の中にあっても変わらず、勤勉に働いている。
それゆえ、さらなる恐れを助長してしまうのかもしれないのだが。
日本人も勤勉な民族と言われるが、ユダヤ人とは決定的に違うことがある。
それは、神を信じないこと。己が神、お金が神、あるいは、神などいない、そう考える人が多いのではないだろうか。
ある意味、恐ろしい民族でもある。
そんな恐ろしい民族として生まれたことの意味を考えながら、その中にあって神を信じようとする生き方とはいかなるものか、特別なことはできなくても、日常の生活の中で、何か一つでも神を信じる者らしく生きられれば良いと思う。
まずは祈るか。