詩篇29:1 賛歌。ダビデの詩。神の子らよ、主に帰せよ栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のようにシルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。
数々の力ある御業、そして、それによる輝かしい栄光を主に帰せよと命じられている。
しかし、それらは全て「主の御声」によると語られている。
3,4,5,7,8,9節と「主の御声は~」と始まっていることからわかるように、これらの全ての力ある業、そして栄光の数々が、神の発せられる御言葉一つで行われ、実現しているというのである。
我々人間の世界で、これほど「声」に力があり、栄光を現すことのできるものがいるだろうか。
どんなに優れた業を行おうとも、声だけでは難しい。
仮に、鶴の一声で多くの人を動かすことのできるような政治的なリーダーだったり、世界的な大企業のトップにあるような人でさえ、そこに行き着くまでに、膨大な働きを積み重ねてきているはずである。
しかし、主なる神様は違う。
最初から、御声一つで事を起こされる。
聖書のはじめ、創世記のはじめからそうである。
その「ことば」なる神が、私たちの救いのために人となられ、十字架で死に、よみがえられて、私たちの救いを完成させられた。
この神の「御声」こそ、まことの栄光に輝いたお姿えあると言える。
この「御声」に感謝しつつ、聞き従っていきたい。