2コリント8:8 わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。
8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
8:10 この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。
8:11 だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。
8:12 進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。
8:13 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。
8:14 あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
8:15 「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。
豊かなものが貧しいものをサポートしていくということは、聖書的には推奨されていることであると言える。
キリストがそうであられたように、我々も弱い者、貧しい者を助けていくべきであるということなのだろう。
ただ「他の人には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではく」と語られているように、特定の人だけに負担がかかるようではいけない。
釣り合いが取れるようにと語られている通り、何事もバランスよく行われることが好ましいのだろう。
多く集めても、それでも不足していると思う人もあれば、わずかしか集めなくても十分足りていると思う人もある。
万事平等にというのは難しいのかもしれないが、本当に必要なものが何であるかということがわかれば、足りるということの意味も分かってくるのかもしれない。
私たちは本当は何を必要としているのか、生きて行くために何が必要なのか、よくよく吟味しながら、その上で差さえあっていけるようにと願うものである。