2コリント5章11~15節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2コリント5:11 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。
5:12 わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。
5:13 わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

「ありのままに」というフレーズが流行っているようですが、我が家は、いつも世間一般で流行していることはほぼ無縁の生活を送っている。
でも、それこそが本来の「ありのままに」な生き方なのではないだろうか。
周りで流行っているからと言って自分も影響されているようでは、もはやそれは「ありのまま」とは言えない。
私に言わせれば「踊らされている」という感じがしないでもない。
もちろん、良いものは良いと素直に認めるし、気に入ったことがあれば、それを大事にしていけば良いと思う。
ただ、ここで言うところの「ありのままに」とは、神の御前に、誇るべきではないことは悔い改め、神を畏れ信頼する生き方を誇るべきという意味で、何もかもOKという意味ではない。改めるべきところをきちんと改めてこそ、「ありのままに」生きるということになるのだろう。
しかし、果たして罪にまみれた生き方を改めることができるのだろうか。
聖い生き方を選び取ることができるのかと言えば、それは非常に難しい。
かといって、開き直って「自分には無理」と言ってしまうのも、少し違う感じがする。
神の御前に「ありのままに」生きようとするなら、「主よ、愚かなこの罪人のためにも、あなたが十字架で死なれたことを覚え、真に申し訳ない気持ちですが、感謝して、あなたの赦しの約束を信頼します」という心で、罪赦された自分を受け入れていくことではないだろうか。
間違っても、自分自身で自分勝手に自分の罪を「これくらいならよしとしよう」というようなものであってはならない。
どんな小さな罪でも、キリストの尊い血による贖いの代価が支払われて、完全な赦しが与えられていることを覚え、感謝して生きること、それが本来の「ありのままに」生きる人生と言えるのではないだろうか。