2コリント3章7~18節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

2コリント3:7 ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、
3:8 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。
3:9 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。
3:10 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。
3:11 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。
3:12 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、
3:13 モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。
3:14 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。
3:15 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。
3:16 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。
3:17 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

昨夜、NHKで、臨死体験についての番組が放送されていた。
とても興味深い内容で、心停止などの臨死体験をされたことのある方が、ほぼ同じような体験をされるという。
最初に、肉体から魂が離脱し、その後、まばゆい光の中に導かれ、全知全能の大いなる方と出会い、この世で経験したことのないような愛と平和の世界に包まれる、というのである。
しかし、残念なことに、この番組では、その体験を全て脳の様々な機能や働きで分析しようとする。
肉体を離脱することは、脳が錯覚しているといい、意識や心はすべて神経線維の関係で説明できるといい、至福につつまれる瞬間は単なる夢心地なのだと。
何もそこまでして科学的に解明しようとする必要があるのだろうかと疑問に思う。
心や意識のすべてが脳の機能に過ぎないと言うなら、脳がなくなれば心も終わり。
死んでしまえばすべてが終わりだというのなら、何も、無理に臨死体験について解明しようとする必要などないのではないだろうか。
まあ、番組自体はとても興味深かったけれど、あくまで科学で全てを解明しようとこだわり続けるレポーターを、少しかわいそうに思えてしまった。
神の存在を信じれば、何も矛盾しないし、むしろ、神が存在している考えたほうが死に対する恐れも取り去られ、真の平安が得られるだろうと思うのだ。
あくまで科学にこだわり続けるならば、いつまでたっても真実は見えてこない。私はそう思う。