ヘブル7章1~10節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ヘブル7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。
7:2 アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。
7:3 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
7:4 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
7:5 ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。
7:6 それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。
7:7 さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。
7:8 更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。
7:9 そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。
7:10 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。

我が家では、聖書を読んで、その感想を分かち合ってくれることと引き換えに、子どもたちがスマホのゲームをしてもよい時間を取れることにしている。
動機はどうあれ、一生懸命、聖書を読んで分かち合おうとしてくれる。
昨日、次男が「十分の一を捧げたら、神様の祝福が何倍にも帰ってくるということがわかったので、自分もそうしたいと思います」と言ってきた。
まだ、お金の苦労とか心配とかが少ない子らだけに、十分の一を捧げるということがどれだけ大変であるかとかは考慮されていないと思うが、それでも、普通にそういう風に思ってくれているのなら、このまま成長して行ってくれることを願うだけである。

クリスチャンは、多くの方が収入の十分の一を捧げることを目標としている。
もちろん、経済的な理由で、そんなに捧げられないという方もおられるだろう。
無理はしなくても良いと思う。
しかし、大事なことは、それが死んでいる者に捧げられるのではなく、生きている方に捧げられるということを理解することであると思う。
アブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げた。
ここでは比喩的に語られているが、メルキゼデクとは、大祭司としてのイエス・キリストを指し示すものと言われている。
もちろん、メルキゼデクは神ではないし、キリストでもない。一人の死ぬべき祭司であり、人間である。
けれども、アブラハムはメルキゼデクを通して、永遠の神に捧げるのである。
だから、私たちも、捧げ物をする時には、神に捧げるのだという視点を忘れてはならない。
そうでなければ、十分の一を捧げるということに喜びはないからである。

次男が将来、自分の働きの実を神様に捧げようとする時、喜んで神に捧げるという気持ちを見失わないでいて欲しいと願うものである。