1ヨハネ1章1~4節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

1ヨハネ1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
1:2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

イエス様の弟子たちが私たちと決定的に違うのは、イエス様との出会いを体験したことである。
単なる経験ではなく、体験である。
彼らは自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手で触れた命の言葉を伝えているのである。
うらやましいなあと思う反面、それだけ彼らの体験が本物であったということに他ならない。
聖書の証言は、誰かが考え出した絵空事ではなく、弟子たちが実際に体験したことに基づく真実の証言なのである。
そして、彼らがこのような仕方で証言するのは、私たちもまた彼らと同じ交わりの中に入れられるためであると述べている。
つまりそれは、実際にイエス様に出会った弟子たちが体験した交わりの中に、私たちの入れていただけるということである。
私たちはイエス様との実際の出会いを体験していないにも関わらずである。
ということは、実際に自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手で触れなくても、彼らの証言に信頼することで、イエス様との交わりを体験しているということになる。
不思議なことだが、ここに記されていることは、そういうことになるということなのだろう。
それが可能になるのは、イエス様が真実な言葉なる神であるからに他ならない。
つまり、イエス様は真実なお方だから、イエス様が語られた言葉は常に真実を伴い、それ故に、イエス様の言葉が語られるところには、イエス様ご本人もおられるからなのだ。
もはやそれは、私たちの信仰に左右されるようなものでもなく、真実なお方がそう仰せられるのだから、そうであるとしか言いようがない。
イエス様の言葉が語られるところに、いつもイエス様はいらっしゃるのである。
だから、今日も私たちは聖書の御言葉を見て、聞いて、触れていくのである。