1コリント11:23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
かつてイスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンへと旅立っていった。
しかし、その時、主なる神様は傷の無い一匹の羊をほふるよう命じ、しかも、急いで旅立つことができるような旅支度をして羊をほふるように命じられたのである。
以後、イスラエルの民は、エジプトから解放されたことを記念するために、過ぎ越しの祭りを行ってきた。
しかし、それらの本当の意味が何であるかを知らなければ、ただ単に、祭り事を行っているだけに過ぎない。
過ぎ越しの羊が我らを救うために犠牲となられたイエス・キリストを表し、すぐに旅立つことは、イエス・キリストの贖いによって、ただちに神の御国に入れられていることを示しているということを知った時にはじめてこの過ぎ越しの祭りの意味が見えてくる。
つまり、この過ぎ越しの祭りも、イエス・キリストの十字架の贖いと救いを言い表しているのであり、救い主イエス・キリストの死を記念する出来事であると言えるのだ。
イエス様は、後の世代の者たちのためには、主の死を記念するために聖餐の礼典を行うように命じられている。
しかし、旧約の時代から、既に「記念」とされていたことを覚えるとき、神様のご計画の素晴らしさを思い知ることができる。
主は、終わったことを記念するだけではなく、これから行われるであろう事も記念される。
つまり、それは確かなことであるということ。
主の死を記念することは、同時に、私が生きることに他ならない。
私が生きることも確実なこととして記念されている。
そのようなことを覚えつつ、主の死を記念する聖餐の恵みに与りたいものである。