3ヨハネ1:9 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
1:10 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
1:11 愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。
1:12 デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。
1:13 あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。
1:14 それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。
1:15 あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。
指導者になりたがる人というのは、おおよそ、自分の思うままに人々を操りたい、つまり、支配したいという思いのために、そのような地位を求めるのであろう。
しかし、すべての指導者たちが必ずしもそのような思いでいるわけでもない。
一見、愚かに見えて、神が立てられた指導者もいる。
仮に、よこしまな思いで指導者が立てられたとしても、そのような指導者の教えには、人々は従わないからである。
しかし、どんなに愚かそうに見える指導者であっても、それが神によって立てられたものならば、長い目で見ると、何らかの神のご計画が明らかにされるために必要なことであったとわかる日がいつか来るのかもしれない。
そんな時、大切な事は、指導者が、よこしま思いで立てられようと、仕方なく立てられたものであろうと、時が経つにつれて、いつか必ずその目的が明らかにされていくはずだから、成り行きを見守ることで、隠された部分が明らかにされていくのを待つのも良いかもしれない。
いずれにしても、指導者たちの言動を見極める目は必要である。
そういう意味で、教会の指導者は、常に、聖書の御言葉に立って指導する事が大切である。