コヘレト7:15 この空しい人生の日々にわたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
7:16 善人すぎるな、賢すぎるなどうして滅びてよかろう。
7:17 悪事をすごすな、愚かすぎるなどうして時も来ないのに死んでよかろう。
7:18 一つのことをつかむのはよいがほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えばどちらをも成し遂げることができる。
7:19 知恵は賢者を力づけて町にいる十人の権力者よりも強くする。
7:20 善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない。
7:21 人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても聞き流していられる。
7:22 あなた自身も何度となく他人を呪ったことをあなたの心はよく知っているはずだ。
「善人過ぎるな」との戒めは、新約聖書におけるファリサイ派のような偽善的な生き方を戒めるものであろう。
つまり、自分が成しうる義以上の義を追い求めても、結果的には、その義には到達し得ない自分を見出してしまうということである。
一方で「愚かすぎるな」との戒めは、その逆で、必要以上に自分自身を卑下しないようにとの戒めであろう。
自分はダメな人間だ、無能な人間だと言って、責めすぎるなということなのだろう。
いずれの言葉も、極端を戒めるものに他ならない。
どんなに善悪を厳しき追い求めても、私たち人間には、それを極めることはできないのだ。
それなのに、それ以上のものを求めてしまう。
我々が神と等しい存在ならば、それもできよう。
しかし、私たちは、弱く愚かな存在なのである。
まず、それを認めることと、そこから、どういう態度で自分の内にある罪の現実や、義について考えていく事が大切である。
何もかも極めていく事は難しいが、見極めていくことは大切な事。
祈りの生活の中で、自分自身と対峙し、そして、神と向き合っていくものでありたい。