1テモテ6章11~16節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

1テモテ6:11 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
6:12 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。
6:13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。
6:14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。
6:15 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
6:16 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

11節の箇所に「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」との記述がある。
しかし、信心と信仰と、何が異なるのだろうか。
新改訳聖書では、信心の代わりに敬虔という言葉が用いられている。
敬虔とは、神を畏れ敬う心を持つ事、あるいは、そのような真実な信仰を意味する言葉である。
では、敬虔と信仰とは違うのだろうか。
たとえば、神の存在を信じてはいるけれども、神を畏れ敬う態度を示していないのであれば、それは敬虔な信仰とは言えまい。
逆に、どんなに敬虔で神の教えに従って生きていようとも、肝心の神を信じる心がないならば、それは形だけの敬虔になってしまうのではなかろうか。
敬虔で、なおかつ信仰を持っていること。
決して難しい事ではなく、信じている通りに生きよということなのだろう。
信仰と生活の全てが遊離することなく、一致したものとなりますように。