エゼキエル2章8節~3章11節、エフェソ2章4~11節、マタイ9章9~13節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

マタイ9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

イエス様の弟子として召されたマタイは、なぜ選ばれたのか。
聖書の記述を見ていると、たまたまそこにいたから主イエス様に声をかけられたようにも見える。
しかし、その後のファリサイ派の人たちとイエス様との問答を見ていると、それが単なる偶然ではなく、マタイでなければならない必然があったのだろう。
そう、マタイは罪人であり、赦しを求め、主の憐れみを必要をしていた人であったということである。
そして、もう一つ大切な事、それは、マタイはイエス様の呼びかけに応じて、従ったという事実である。
多くの者がイエス様のなさる働きを見て、素晴らしいお方であるということは知っていたであろう。しかし、仕事も生活も、何もかも捨てて従って行ったマタイは、イエス様の弟子にふさわしい者であった。
もちろん、完全ではなかったかもしれないが、イエス様のご生涯をまそばで目撃し、後にその生涯を伝える働きを担うには十分であった。

主の弟子として必要なこと。
自分の罪を認め、自覚し、赦して欲しいと願っている事。
しかし、赦される事は不可能であり、神の憐れみが必要であると知っていること。
主の呼びかけに応じ、何もかも捨てて、すぐに従うものである事。
主が私たちのために死なれ、復活し、救ってくださった事を証する者。

これらの事柄を大切にしていきたいものである。