エレミヤ31章1~22節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ31:1 そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。
31:2 主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は荒れ野で恵みを受けるイスラエルが安住の地に向かうときに。
31:3 遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ。
31:4 おとめイスラエルよ再び、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ楽を奏する人々と共に踊り出る。
31:5 再び、あなたはサマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。
31:6 見張りの者がエフライムの山に立ち呼ばわる日が来る。「立て、我らはシオンへ上ろう我らの神、主のもとへ上ろう。」
31:7 主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。「主よ、あなたの民をお救いくださいイスラエルの残りの者を。」
31:8 見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も、歩けない人も身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
31:9 彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの父となりエフライムはわたしの長子となる。
31:10 諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」
31:11 主はヤコブを解き放ち彼にまさって強い者の手から贖われる。
31:12 彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油羊、牛を受けその魂は潤う園のようになり再び衰えることはない。
31:13 そのとき、おとめは喜び祝って踊り若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。
31:14 祭司の命を髄をもって潤しわたしの民を良い物で飽かせると主は言われる。
31:15 主はこう言われる。ラマで声が聞こえる苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む息子たちはもういないのだから。
31:16 主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。
31:17 あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。
31:18 わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。「あなたはわたしを懲らしめわたしは馴らされていない子牛のように懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。
31:19 わたしは背きましたが、後悔し思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ若いときのそしりを負って来ました。」
31:20 エフライムはわたしのかけがえのない息子喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびにわたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴りわたしは彼を憐れまずにはいられないと主は言われる。
31:21 道しるべを置き、柱を立てよ。あなたの心を広い道にあなたが通って行った道に向けよ。おとめイスラエルよ、立ち帰れ。ここにあるあなたの町々に立ち帰れ。
31:22 いつまでさまようのか背き去った娘よ。主はこの地に新しいことを創造された。女が男を保護するであろう。

イスラエルの民の回復のメッセージには、非常に喜びにあふれた民の様子が語られている。
それほどに、解放のメッセージは、喜ばしく、幸いなものであるということである。
そして、この解放のメッセージこそ、私たちを十字架の贖いによって罪の奴隷の情愛から解放し、救ってくださった主イエス様の救いの喜びに通じるものなのだ。
そう思うとき、これほどの幸いな救いに与っているはずの私たちに、これほどの喜びを表す場、幸いを感謝する場があるだろうかと考えたとき、それは、礼拝であるということが見えてくる。
しかし、自分たちの礼拝の様を思い起こすとき、そこに喜びあふれて神に感謝、賛美している姿があるだろうかと思わされる。
もちろん、ただ喜び叫んでいるだけではなく、今まで犯してきた罪の真実な悔い改め、十字架のキリストによる罪の贖いと、それに伴う赦しの宣言があり、招かれ、応え、そして、感謝と賛美に満たされて、再び日常の生活の場へと遣わされて行く。そのような場として礼拝を守っていることが大切であろう。
つまり、礼拝とは、出席しなければならない行事ではなく、聖書に記されている幸いの具現化しているところであり、私たち自身がそのように捉えているかどうかが重要なのであろう。
もちろん、全ての礼拝がそのように感じられない場合もあるかもしれない。
静まり返った礼拝、力のない説教、居眠りしてばかりの会衆。
しかし、礼拝を司る者、メッセージを語る者、共に集っている教会員に不平を言う前に、まず自分自身がそのような心で礼拝に臨んでいるかどうか、今一度よく吟味して、その上で、礼拝に臨む事が大切ではないだろうか。
私もまた、礼拝を構成する一員なのだから。