エレミヤ2章20~37節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ2:20 あなたは久しい昔に軛を折り手綱を振り切って「わたしは仕えることはしない」と言った。あなたは高い丘の上緑の木の下と見ればどこにでも身を横たえて遊女となる。
2:21 わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのにどうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか。
2:22 たとえ灰汁で体を洗い多くの石灰を使ってもわたしの目には罪があなたに染みついていると主なる神は言われる。
2:23 どうして、お前は言い張るのかわたしは汚れていないバアルの後を追ったことはない、と。見よ、谷でのお前のふるまいを思ってみよ、何をしたのか。お前は、素早い雌のらくだのように道をさまよい歩く。
2:24 また、荒れ野に慣れた雌ろばのように息遣いも荒く、欲情にあえいでいる。誰がその情欲を制しえよう。彼女に会いたければ、だれも苦労はしない。その月になれば、見つけ出せる。
2:25 素足になることを避け喉が渇かぬようにせよ、と言われてもお前は答えて言う。「いいえ、止めても無駄です。わたしは異国の男を慕いその後を追います」と。
2:26 盗人が捕らえられて辱めを受けるようにイスラエルの家も辱めを受けるその王、高官、祭司、預言者らも共に。
2:27 彼らは木に向かって、「わたしの父」と言い石に向かって、「わたしを産んだ母」と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向けしかも、災難に遭えば「立ち上がってわたしたちをお救いください」と言う。
2:28 お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ災難に遭ったお前を救いうるのならば。ユダよ、お前の神々は町の数ほどあるではないか。
2:29 なぜ、わたしと争いわたしに背き続けるのか、と主は言われる。
2:30 わたしはお前たちの子らを打ったが無駄であった。彼らは懲らしめを受け入れなかった。獅子が滅ぼし尽くすようにお前たちは預言者を剣の餌食とした。
2:31 この世代の者よ、見よ、これは主の言葉だ。わたしはイスラエルにとって荒れ野なのか。深い闇の地なのか。どうして、わたしの民は言うのか。「迷い出てしまったからにはあなたのもとには帰りません」と。
2:32 おとめがその身を飾るものを花嫁が晴れ着の帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れ数えきれない月日が過ぎた。
2:33 なんと巧みにお前は情事を求めることか。悪い女たちにさえ、その道を教えるほどだ。
2:34 お前の着物の裾には罪のない貧しい者を殺した血が染みついている。それは、盗みに押し入ったときに付いたものではない。それにもかかわらず
2:35 「わたしには罪がない」とか「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。だが、見よ。「わたしは罪を犯していない」と言うならお前は裁きの座に引き出される。
2:36 なんと軽率にお前は道を変えるのか。アッシリアによって辱められたようにエジプトにも辱められるであろう。
2:37 そこからも、お前は両手を頭に置いて出て来る。主はお前が頼りにしているものを退けられる。彼らに頼ろうとしても成功するはずがない。

ここには、イスラエルの民が、まるで欲情を抑えきれない遊女のように、偶像の神々を慕っていると表現されている。
神のことを知らないわけではないのに、あえてその神の御許に立ち返ることを避けるかのように、偶像の神々ばかりを追い求めていくのである。
しかし、それは、偶像の神々を追い求めているほうが、自分にとって利益があると考えているからである。
あるいは、快楽、欲望を満たすために、あえて知りつつ、真の神を避けているのかもしれない。

今の時代の多くの人も同じ事が言えるのではないだろうか。
真の神に立ち返ることは、それが良いことであるとは知っているのに、あえてそこを避けて通ろうとする。
真実に目を背け、一時的な快楽を追っているほうが、なにかと楽であるからなのだろうか。
しかし、その行く先に救いはなく、ただ滅びのみがあることは、おそらく誰もが知っているはずなのに。

この世代の者よ、見よ、これは主の言葉だ。わたしはイスラエルにとって荒れ野なのか。深い闇の地なのか。どうして、わたしの民は言うのか。「迷い出てしまったからにはあなたのもとには帰りません」と。

神を知りながら、神の御許に立ち返ることを拒み続ける者の持つ、奇妙なプライドのようなものを捨て、素直に神の御許に立ち返る者でありますように。