19:22 彼らがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、家の主人である老人にこう言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」
19:23 家の主人は彼らのところに出て行って言った。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。この人がわたしの家に入った後で、そのような非道なふるまいは許されない。
19:24 ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思いどおりにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない。」
19:25 しかし、人々は彼に耳を貸そうとしなかった。男が側女をつかんで、外にいる人々のところへ押し出すと、彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。
19:26 朝になるころ、女は主人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた。
19:27 彼女の主人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、
19:28 「起きなさい。出かけよう」と言った。しかし、答えはなかった。彼は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に向かって旅立った。
19:29 家に着くと、彼は刃物をとって側女をつかみ、その体を十二の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた。
19:30 これを見た者は皆言った。「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から今日に至るまで、このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」
先日、ノルウェーの宣教師の先生から、現代のノルウェーの様々な問題について教えていただいた。
国教会のこと、宗教に対する政府の関与など、国教会を持つ国ならではの問題も多いようだ。
その中で、同性愛の問題は、いまや問題にされないほど受け入れられたものとして認識されているとのことなのだそうだ。
国が国民一人一人の人権を尊重する時、どうしても、この問題は避けて通れないものなのかもしれない。
しかし、それが神の前で罪であるかどうかということとは、全く別の問題であろう。
確かに同性愛は犯罪ではない。しかし、この世界を創られた創造者なる神の御前では、れっきとした罪であることには変わりない。
裁くのは人でもなく、国でもない。神がこれを裁かれるのだ。
そして、その裁きがあるからこそ、キリストの十字架もまた意義あるものとなるのだである。