ルカ1:68 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、
1:69 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。
1:70 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
1:71 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。
1:72 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。
1:73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、
1:74 敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、
1:75 生涯、主の御前に清く正しく。
1:76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、
1:77 主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。
1:78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
1:79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
イエス様の道備えをしたバプテスマのヨハネについて、聖霊に満たされた父ザカリアは、神が私たちを救うため、イスラエルの歴史を通して預言者たちを送り、着々と救いに至る準備を備えられてきたことを告げ、その最後の預言者としてヨハネが生まれるということを告げている。
しかしそれは、単に歴史の中で現れた預言者の一人であるというよりも、神の救いのご計画の「流れ」の中での出現であるということが語られていると言える。
つまり、たまたま偶然ではなく、必然的にヨハネは「神から」送られたのである。
先日、ある教会で、一つの偶然の重なった出来事をお話しした。
しかし、全てのことは、神の御手のうちにあることを思う時、単なる偶然というものにには、何らかの神の意図があるものなのかもしれないと思わされる。
しかし重要なことは、自分勝手な都合で様々な事象を必然的に結び付けないことであろう。それは偶然である。
しかし、いろいろなことが、神の救いの歴史、宣教の進展の中で意義つけられていく時、そこには少なからず神様のご計画があるということを覚え、そういう観点から物事を見ていく時に、そこに、神の必然があることを覚えたい。
そう考えると、今私が生きている理由、救われて、この町でクリスチャンとして生かされている理由も、神様のご計画のうちにある必然なのかもしれない。
「あなたでなければ、あなたの周りにいる方は救われないから、あなたをそこに使わしたのだ。」
神様は、そう私に仰せられているのかもしれない。
今までの私の人生をも、そのために導いてくださった主に感謝しつつ、今日の歩みを全うしたいものだ。