ヨブ20:1 ナアマ人ツォファルは答えた。
20:2 さまざまな思いがわたしを興奮させるのでわたしは反論せざるをえない。
20:3 あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。
20:4 あなたも知っているだろうが昔、人が地上に置かれたときから
20:5 神に逆らう者の喜びは、はかなく神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない。
20:6 たとえ彼が天に達するほど頭が雲に達するほど上って行っても
20:7 自分の汚物と同様、永久に失われ探す者は、「どこへ行ってしまったのか」と言わなければならなくなる。
20:8 夢のように飛び去り夜の幻のように消えうせだれも見いだすことはないだろう。
20:9 彼を見ていた目はもう彼を見ることなく彼のいた所も二度と彼を見ない。
20:10 その子らは貧しい人々に償いをし子孫は奪った富を返済しなければならない。
20:11 若さがその骨に溢れていたがそれも彼と共に塵の上に伏すことになろう。
ナアマ人ツォファルは、ヨブと他の友人たちとの問答を聞いているうちに、自分のうちに様々な思いが沸き起こり「興奮」させるので、反論せざるを得ないと語っています。
彼の興奮は、怒りにも似た、悪を決して許しはしないという正義にも似たものであったことでしょう。
しかし、皮肉なことに、そのような彼のヨブに対する姿勢は、彼自身「あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる」と言っている通り、結果的にヨブを非難していることに気付いておらず、何ら、悪意とか責めとかいった感情を抱いてはいないのです。
人とは、かくも恐ろしいもの。
自分も同じ罪を犯しているというのに、他人が同じ罪を犯していると、徹底的に裁こうとすることができてしまうのです。
マタイ7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
私もツォファルと同じ罪を犯しているのでしょう。
「ツォファルはどうだ。ヨブはどうだ。」と言って裁いているようなものですから。
しかし、だからこそ、神の御前に、この私自身の罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いの故に赦されている事実を、信仰を通して受け取ることができるようにしたいものです。