コヘレト4:9 ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。
4:10 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。
4:11 更に、ふたりで寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。
4:12 ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。
4:13 貧しくても利口な少年の方が老いて愚かになり忠告を入れなくなった王よりも良い。
4:14 捕われの身分に生まれても王となる者があり王家に生まれながら、卑しくなる者がある。
4:15 太陽の下、命あるもの皆が代わって立ったこの少年に味方するのをわたしは見た。
4:16 民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にもこの少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。
4:17 神殿に通う足を慎むがよい。悪いことをしても自覚しないような愚か者は供え物をするよりも、聞き従う方がよい。
王として召された者の孤独は、誰にも理解しがたいものであっただろう。
それは、その立場に立たされた者だけにしか味わうことのできないものだからである。
そして、どんなに民のために努力をしても、新しい王が立てられれば、民はみな、彼に聞き従っていく。当然のことであるが、そのように考えると、なんと報われない仕事だろうと思ってしまう。
王の立場、気持ちは理解できないが、一人の牧者としてこの御言葉を味わう時、誰にも理解してもらえない孤独感など、似ている部分があるように思う。
報われない仕事だと思うときもある。
しかし、報いは神から与えられるもの。
自分が衰え、新しい伝道者が起こさていくならば、それも幸いなこと。
そして、誰にも御自分の孤独を理解されることなく、十字架の上で死に行かれたイエス様のことを思う。
イエス様にとって報いはどこにあるのだろうか。
私が主イエス様を信じ、私が出会う人たちもまた主イエス様を信じるようになること、そして、その人たちが救われた喜びに生きるようになること、これが主イエス様にとっての報いなのだろうと思う。
私の今日の1日の歩みが、主イエス様の目に喜ばしい1日となりますように。