日時:2007年7月8日
聖書個所:ヨハネ15章1~7節
ヨハネ15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
主イエス様がまことのぶどうの木であるとの御言葉には、幾つかの幸いな約束が記されている。
枝が木につながっていれば、実を結ぶことができること。
父が実がなるように、ぶどうの枝を手入れをして下さること。
この約束の言葉の故に、私たちが清いものとされていること。
イエス様につながっていることが大切である。
ヨハネ15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
イエス様につながっているということは、イエス様の救いの約束の言葉に信頼し、戒めを守ることに他ならない。
そして、その戒めとは、イエス様が私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うことであると語られている。
私たちは、つい、互いに愛し合うことに目が向いてしまうのであるが、その前に、まず、イエス様がどのように私たちを愛して下さったかということを知ることが先決であり、重要である。
それなしに、愛を知ることも、愛を行うこともできないからである。
しかも、その愛とは、自分の命を捨てるほどの大きな愛であると語られる。
ヨハネ15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
この大きな愛を受けて、私たちも、命がけの愛に習う生き方ができるだろうかと思ってしまう。
しかし、そのたびに、イエス様がご自分の命をかけて、この私を愛して下さったことを思い起こすこと、これがなにより大切なことであると言える。
ただただ、イエス様の十字架の愛に心を留め、そこから全てのことが始まっていくことを願う。