マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
息子がインフルエンザにかかった。学校に休むことを連絡すると「お医者さんにみてもらいましたか?」と聞かれる。そして、インフルエンザであること、完治したことの証明書をもらわなければ学校に来ては行けないと言う。
医者は病を治す人ではなく、ただ判定するだけなのです。
では、牧師はどうか。
主にある兄弟姉妹を養っているのか。
違う。
ただ、聖書に記されている慰めの約束をお伝えするだけの存在なのだ。
バプテスマのヨハネは自分のことを「靴紐を解く値打ちもない」と表現している。
しかし、神はそのような者をお用いになられる。
そして、そのような者の働きをこの上なく喜んでくださるのだ。
イザヤ52:7 いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げあなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。
52:8 その声に、あなたの見張りは声をあげ皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る主がシオンに帰られるのを。
52:9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
52:10 主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。
神の救いの言葉を聞き、救われる方が起されることがなにより嬉しいことである。