ルカ20:45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
20:46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
20:47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
先日、ある青年が「自分も礼拝の説教をしたい」と言うので、いろいろと話し合った。もし、自己主張のためにしたいというのなら、止めておいたほうがいいという話をした。
そして昨日、別の青年が「自分は将来、牧師になりたい」という願いを話してくれた。そこでも、「求められるのは謙遜であること、イエス様と同じように自分を無にすることができれば、働きは、それがどんな働きであれ祝福されるだろう」と話した。
何のために牧師になり、何のために説教しようとするのか、それは全て、主のためでり、そして、メッセージを聞かれる方々に救われて欲しいからであり、自分のことをよく見られたいといった気持ちが、これっぽっちでもあるなら、きっとその働きは続けられないだろうと思う。
自分への戒めもこめて、素直にそう思う。
私の原点であり、支えともなっている主の御言葉。
フィリピ2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。