申命記9章8~21節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

申命記9:8 ホレブにいたとき、あなたたちが主を怒らせたので、主はあなたたちに向かって激しく憤り、滅ぼそうとされた。
9:9 わたしが石の板、すなわち主があなたたちと結ばれた契約の板を受け取るため山に登ったとき、わたしは四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。
9:10 主は、神の指で記された二枚の石の板をわたしにお授けになった。その上には、集会の日に、主が山で火の中からあなたたちに告げられた言葉がすべてそのとおりに記されていた。
9:11 四十日四十夜が過ぎて、主はわたしにその二枚の石の板、契約の板を授けられた。
9:12 そのとき、主はわたしに言われた。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、鋳像を造った。」
9:13 主は更に、わたしに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。
9:14 わたしを引き止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」
9:15 わたしが身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。わたしは両手に二枚の契約の板を持っていた。
9:16 わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。
9:17 わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。
9:18 主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主を憤らせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。
9:19 わたしは、主が激しく怒りに燃え、あなたたちを滅ぼされるのではないかと恐れたが、主はこのときも、わたしに耳を傾けてくださった。
9:20 アロンに対しても、主は激しく怒って滅ぼそうとされたが、わたしはそのとき、アロンのためにも祈った。
9:21 また、あなたたちの罪、あなたたちが造った子牛を取り上げて火に投じ、粉々に砕いて塵とし、その塵を山から流れる川に投げ捨てた。

ホレブの山で四十日四十夜過ごし、神様からの契約の石板を授かってきたモーセ。
一方で、イスラエルの民は、アロンを新たな指導者として立てて金の子牛を造り、これが自分達をエジプトから導き出した神として祭り上げていました。
これに対して、主なる神様は「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。わたしを引き止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする。」と言って、民の背反に対する怒りを表されているのですが、それよりも、もっと顕著に怒りを表しているのがモーセなのです。
彼は、民が祭り上げていた金の子牛に向かって、せっかく神様から頂いた二枚の契約の石版を投げつけ、これを打ち砕いてしまうのです。
このときのモーセの心境は、おそらく、怒り心頭。「神様はあなたがたのことをこれほど大切に思ってくださるに、お前達は何と言う不信仰なことを行っているか!」といったような気持ちで煮えくり返っていたのかもしれません。
しかし、せっかく神様から頂いた石版を投げつけて、これを砕いてしまうまでしなくても良かったのではないかと思うのです。
実は、モーセという人物、普段は口下手でおとなしい人物であったようですが、以外にも血の気の多い人間であり、今風に言うところの「キレる」タイプだったと言えるでしょう。かつて、エジプトで王族の子どもとして生活していたときも、あるエジプト人と同胞イスラエル人とが争っていたとき、エジプト人を殺してしまったことがありますし、荒野で水がなくて民から責められた時、怒りにまかせて岩を打ったこともあり、時々かんしゃくを起すような場面があったようです。
今日の箇所でも、契約の板を投げつけたのは、モーセ自身の判断であり、神様が投げつけよと命じられたわけではないのです。
もちろん、主なる神様は、このような偶像礼拝をする民に対する怒りを表されてはいますから、その怒りを民に知らせるために、このような行動を取ったのかもしれないのですが、神の怒りと人間の怒りとは、根本的に異なるものであるということを覚えなければなりません。

ヤコブ1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

神様の怒りを知ることは大切です。
しかし、神様に成り代わって怒りを表すことは好ましくないことです。
なぜなら、神の怒りは、キリストを十字架に貼り付けにすることによって取り除かれるものであり、私たちが神に成り代わってイエス様を十字架にかけたのではないからです。むしろ、そのような愚かな私たちを救うためにイエス様は御怒りを受けられたのです。

エペソ2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。

怒りに支配されて生きるのではなく、怒りから解放された者として、喜び生きることができますように。