使徒7:54 人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。
7:55 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、
7:58 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。
7:59 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
7:60 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
ステファノの殉教という記述は、聖書を読み、主イエス様を救い主として信じようとする者にとって、ある意味、衝撃的な出来事であると言えるでしょう。つまり、「イエス様を信じる者は、迫害をも甘んじなければならないのか」と。
確かに、長いキリスト教の歴史の中で、実に多くの人たちが迫害を受け、苦しみ、ある者たちは殉教の死を遂げた者たちもいたことでしょう。しかし、だからと言って、すべてのクリスチャンが迫害を受けるというわけではありません。そこには、「ふさわしい者」「召された者」であるという事実があるからなのです。
つまり、迫害に耐えられる力、その境遇を証のチャンスと捉えられる信仰、絶対的な揺ぎ無い救いの確信といったものが兼ね備えられた者のみが受けることのできる、言い換えるならば、特別な任務なのかもしれません。
もちろん、誰であっても、人間ならば、苦しむことを望む者などいないはずでしょう。
しかし、「主イエス様が私たちのために苦しまれた」ということに感謝と賛美を表そうとする者は、イエス様と同じ境遇に与ることもまた幸いと捉えるようになるのかもしれません。
少なくとも、ステファノはそうだったのでしょう。
1ペテロ2:19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。
2:21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
2:22 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
2:23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
2:24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
不当な苦しみを「イエス様と同じ苦しみに与ること」として受け留められるようになった時、はじめて、本物の信仰者と呼ばれるのかもしれません。
それはなかなか簡単ではないけれども、せめて、主イエス様のみもとに帰るその時までは、聖書の御言葉に忠実な僕でありたいと願うものです。