ガラテヤ5章2~15節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

ガラテヤ5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
5:4 律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

割礼を受けるという行為は、それをもって、神の契約の民ユダヤの仲間入りをすることになります。
しかし、その背景には、「我こそ選ばれし者」という思いが強く働いているからなのでしょうか、パウロは、もし割礼を受けようとするなら、キリストの十字架の贖いによる救いの「恵み」を失うことになると語っています。
人の業によるものなのか、それとも、どういうグループに入ろうとすることなのか、あるいは、目に見える行いをもって誇ろうとすることなのでしょうか。
それらの動機の背後に見え隠れするのは、やはり自己中心的な考え方のように思えます。

パウロが「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」付け加えていることも、たいへん興味深いことと言えるでしょう。自分のためであって、自分のためでなく、キリストの恵みの故に、他者への愛の実践に向かわせる信仰の歩み。
しばし、神様の救いの御業の意図を思いつつ、救われていることの意味、生きることの意味を静まって考えてみたいものです。