神との格闘 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

日時:2006年7月23日
聖書箇所:創世記31章1~21節、32章

主なる神様がかつてヤコブに約束された通り、ヤコブは、いよいよ自分の故郷に帰ることになります。
しかし、その前にクリアしておかなければならない、兄エサウとの和解という課題が残っていました。
ヤコブにとって、この課題は、決して避けて通ることのできない問題でした。
ヤコブは、なんとかしてこの問題を解決しようとして、家畜などの贈り物を先に遣わし、エサウの心をなだめようとするのですが、ヤコブ自身、このような小手先の和解策では根本的な解決にはならないことを知っていたはずです。知っていたにも関わらず、ヤコブは最後まで何とかしてこの課題から身を避けようと逃げ続けていたのですが、ついに、ヤボクの渡しにおいて、最後の最後の相手である神様と格闘することになります。
このヤボクの渡しにおけるヤコブと神との格闘は、私たち人間の一番奥底にある、誰にも見せたくはない罪との戦いの様子を描いていると言えるでしょう。
周囲の人間には隠し通せても、神様には隠し通しておくことはできないのです。
そして、ヤコブは、その最後の最後の砦であった罪の姿を神様の前で示され、もものつがいを打たれることで、魂を打ち砕かれる経験をしたということなのでしょう。
しかし、ここで主なる神様は、神と格闘したヤコブに対し「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」と仰せられ、神様に打ち砕かれたはずのヤコブに対し「神に勝った」という表現を用いていることは、非常に興味深いことと言えるでしょう。
一体ヤコブは、神様に勝ったのか、それとも、打ち砕かれたのか。
答えは、両方とも正しいということなのでしょう。
ヤコブは確かに神に打ち砕かれ、罪の姿を悔い改めさせられる経験をしたことでしょう。しかし、それによって、彼は神からの義を頂き、聖なる民としての「イスラエル」の称号を受けたのであり、打たれたことによる勝利という、実に素晴らしい聖書の救いの約束を指し示していると言えるのではないでしょうか。
私たちが神様からの真の祝福を受けるために、決して避けて通ることのできない罪の問題、しかし、この罪を神様に指摘され、本来ならば、打ち砕かれ、神様の御前になす術もないはずの者なのですが、神の御子キリストの贖いの故に、すべてを赦していただき、神の御前に勝利者として迎えられるという事実、ヤコブがイスラエルと名乗ることができたのも、ただただ神の憐れみの故であることを思うのです。
赦しはすでに約束されているのですから、安心して神様の前に己の罪の姿をさらけ出し、イエス・キリストの血の故に赦していただく幸いを信じて受けとめたいものです。