日時:2006年7月9日
聖書箇所:創世記28章6~22節
成長の解説を見ると、ヤコブが石をまくらにして眠り、夢の中で神様と出会った経験は、後にベテルと呼ばれるその土地が聖なる場所であるというより、ヤコブが行く先々のどこにいても、主が共にいて下さるという恵みを記念するため、そこに祭壇を築き、主を礼拝したことに注目するよう勧められているように思います。
確かに20節以下のヤコブの言葉に注目すると、彼がそのように捉えていた様子が伺え、「あなたがどこに行っても、わたしはあなたとともにおり」という神様のメッセージが、一人寂しく旅をしていたヤコブを励まし、強めていったであろうことが伺えます。
一方のエサウは、父イサクのもとにあり、大勢の家族や富みに囲まれながらも、絶えず「父は自分を愛しているのだろうか」といった不安の中にいたようで、父イサクに気に入られるよう、イシュマエルの娘をめとったりと、やや落ち着きのない生き方をしていた様子が描かれています。
この二人の様子を思う時、誰もが、放蕩息子のたとえを思い出すのではないでしょうか。
ルカ15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
エサウは常に父イサクと共に過ごし、平穏な日々を送っていたはずです。なのに、心は常に父と共になく、富みと快楽に囲まれた生活の中、平安のない日々を送っていたのでしょう。
一方、己が撒いた種とはいえ、放浪の旅を続けるヤコブにとって、心は常に父や家族のことばかりに向いていたことでしょう。そして、何よりも、主なる神様が彼と共にいて下さったのです。
私たちはこのテキストから、どこにいても、神が共におられ、そのことの故に、そこが神の国となりうるということを覚えたいものです。
「あの町に行けば自分は変わる」とか「環境が変われば幸いになれる」とか、自分の置かれている状況を言い訳にしないで、自信を持って「ここが神の国。私は神と共にいる」と告白できるものでありたいものです。