エレミヤ23:16 万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。
23:17 わたしを侮る者たちに向かって彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。
預言者エレミヤの時代の多くの偽預言者たちは、自分たちの立場を守ろうとするため、「平和だ、平和だ」と、民のご機嫌を取るような言葉ばかりを選んで語っていたようである。しかし、それによって、民は安心し、一向に真実な悔い改めをしようとせず、結果として、亡国へと進んでいくことになる。
耳障りの良いメッセージは、確かに、聞いている者に安心感を与え、喜びをもたらしてくれるように思える。しかし、それが、真実な悔い改めを伴わないものであるならば、それは、束の間の喜びに過ぎず、真の平安をもたらすものとはなりえないのである。
真実な悔い改めを通らないままの「平安」のメッセージは、それは、真の平安とは程遠く、一時的な快楽であり、安逸をむさぼるような、空しい祝福であると言えるのではないだろうか。
一時的には厳しい言葉であったとしても、未来永劫にわたって約束された祝福に与るためには、己の現実と向き合い、真実な罪に対する解決をクリアしていかなければならないはずである。
2コリント4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
生ける真の神様の御言葉は、時に厳しいことを要求されることがある。しかし、それは、最終的に、私たちが最高の祝福に与ることができるためでもあり、言わば、神様の厳しい御言葉は、私たちが救われるために必要な言葉、愛の御言葉とも言いうるものではないだろうか。
神様の御言葉が厳しいものであるか、それとも、慰めを与えるものであるかどうか、それは、御言葉を聞く者の状況によって違ってくる。
罪のうちに歩んでいる者がいれば、主なる神様は、その人を滅びから助け出そうとするため、当然、悔い改めを迫るような厳しい言葉となる。
しかし、己の罪の姿に絶望し、救いを求めている者に対しては、「あなたの身代わりにキリストが贖いを成し遂げられたゆえ、もはやあなたは救われているのだ」と、大きな慰めの言葉を投げかけてくれる。
神の御言葉を取り次ぐ預言者は、このことを見極め、主なる神様が、今語ろうとしている御言葉を誤り無く語らなければならないのである。
エレミヤ23:1 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。
23:2 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
23:3 「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。
23:4 彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
23:5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う。
23:6 彼の代にユダは救われ イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
預言者のための預言というものはない。あくまで、預言者は、神様の民に対する救いを願う神の愛を告げるのが務め。
その預言者が言う。
「真の牧者が現われる。その方は、正義と恵みの業を行い、民に真実な平安をもたらす」と。
このことは、主イエス様の到来によって実現した事柄。
主イエス・キリストこそ、真の大預言者であり、大牧者なるお方。
この方にこそ、真の平安があることを思う。