エレミヤ22章1~30節 | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

エレミヤ22:6 主はユダの王の宮殿についてこう言われる。あなたは、わたしにとってギレアドの森 レバノンの頂のようであった。しかし、わたしはあなたを荒れ野とし 人の住まない町にする。
22:7 わたしは滅ぼす者を聖別し おのおの武器を手にしてあなたを攻めさせる。彼らはあなたの最上のレバノン杉を切り倒し 火に投ずる。
22:8 多くの国の人々がこの都を通りかかって、互いに尋ね、「なぜ主は、この大いなる都にこのようになさったのか」と聞くならば、
22:9 「彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ」と答えるであろう。
22:10 死んだ王のために泣くな。彼のために嘆くな。引いて行かれる王のために泣き叫べ。彼が再び帰って 生まれ故郷を見ることはない。
22:11 父ヨシヤに代わって王となったが、このところから引いて行かれたユダの王、ヨシヤの子シャルムについて主はこう言われる。「彼は再びここに帰ることはない。
22:12 彼は捕囚となっているそのところで死に、この国を再び見ることはない。」
22:13 災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を 正義を行わずに高殿を建て 同胞をただで働かせ 賃金を払わない者は。
22:14 彼は言う。「自分のために広い宮殿を建て 大きな高殿を造ろう」と。彼は窓を大きく開け レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。
22:15 あなたは、レバノン杉を多く得れば 立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし 正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。
22:16 彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ わたしを知ることではないか、と主は言われる。

ユダの王シャルム(エホアハズ)の時代、イスラエルの国は、隣国バビロンからの脅威にさらされ、国家終焉の時を迎えようとしていました。
にもかかわらず、歴代の王たちは、一向に主なる神様のもとに立ち返ろうとせず、己の王宮の増改築などに精を出し、民の苦しみを和らげようなどという考えは全く持ち合わせていませんでした。
そのような王の元で、圧制に苦しむ民を救うには、もはや、この国を打ち滅ぼすより他、仕方が無かったのかもしれません。
国が滅ぼされる事は、確かに厳しい現実ではあるけれども、よこしまな為政者たちの手によって、国民から搾取されるばかりの国など、無い方がマシなのかもしれません。

「あなたは、レバノン杉を多く得れば 立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし 正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。」

王宮が立派なものになれば、その宮殿に住む王が立派な人物であるかのように思ってしまうことは、単なる思いあがりであり、むしろ、国民からは不平不満がつのるばかり。本当の意味での偉大な王とは、己を貧しくしてさえも、民のことを思い、養い、導いていくような人物なのでしょう。

フィリピ2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

イエス様は、私たちを救うために、ご自分の命を投げ出して下さったお方。
私たちが立派な会堂を建てるために死なれたのではありません。
質素でもいい。心のこもった礼拝が守れるような場所として、教会を用いていきたいものですね。