聞く人のために | 聖書日課 デボーションノート

聖書日課 デボーションノート

聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。


聖書本文は日本聖書協会発行の新共同訳聖書を引用しています。

日時:2006年6月4日
聖書箇所:使徒2章1~13節

英語の苦手な私は、ペンテコステの出来事を読むたびに、「ああ、私にも聖霊様の賜物として、外国の言葉が話せるようにならないかなあ」と思う時があります。(ちゃんと勉強しない自分が悪いのですが・・・笑。)
バイリガルに憧れて、英会話教室に通う人もますます増えてきているように思います。しかし、生まれて間もない子供たちを英会話教室に通わせたりしているニュースなどを聞くと、時々疑問に思うことがあります。「何故、何のために英語を勉強しているのですか?」と。
確かに、世界はどんどんグローバル化していて、英語くらい話せないと、社会でついていけなくなる、そんな時代になっていくのかもしれません。しかし、大切なことは、言葉や文化の異なる人たちとの交流や、会話をする相手があってはじめて意味を成すものであるということを思う時、語学の勉強を志している人には、きちんとその辺を認識しておくべきかなあと思うのです。
自己実現のため、あるいは、社会生活を送る上で、取り残されないため?もし、そのような思惑だけで英語を学んでいったとしても、果たして、そこに、どんな幸いな出会いがあり、交わりがあるのだろうかと思ってしまいます。
私が英語を話せたらなあと思うのは、海外からやってきたクリスチャンたちと、共に祈りを共有したいときです。この時だけは、相手の方の願っていること、感謝なこと、そして、イエス・キリストによる救いの証など、何の障害もなく理解しあえたら、どんなに素晴らしいだろうと思います。

初代教会の時代、聖霊を受けて外国の言葉を語りだした人たちは、「私は外国語を話せます」というような驕りはなく、ましてや、「外国語を話せなければ、社会についていけない!」などという焦りなど微塵もなかったはずです。ただ純粋に、神の恵みの御言葉を語っていた。それだけだったはずです。
そして、なぜ、そのようなことが起こったのか、それは、聞く人の存在があったからです。
会話とは、聞く人があって、はじめて成立するものであり、言い換えるならば、私たちの語る言葉は全て、何語であったとしても、聞く人に理解してもらうために語るのであり、私を知って欲しいためとか、私を認めて欲しいからとかではなく、相手の立場になって考え、何を語ることがその人にとって幸いであるのかを考え、語る。それが、神様のなさる「他者への利益」すなわち「愛」に根ざした言葉なのだということを思います。

さて、今日の私の言葉は、聞いて下さる方にとって、果たして「益」となっているのでしょうか?
少なくとも、害にならないように気をつけたいものです。